短編

だってあなたを穢したくないのだもの


彼の心に触れてしまうのを、恐らく私はずっと恐れていたのだと思う。
始めに自分の中の恐怖の存在を知ったのは、体育祭の昼休みに耳にした彼の独白がきっかけだった。
額の左側の肌を黒々と染める火傷跡がとても目立つ場所から強く存在をこちらに見せつけてくる所為で、彼と向かい合いそれを見た人間ならば、訳ありだ、と誰もが薄っすらと背景の事情を察知するはずだ。世の中には人の胸中奥深くの事情を掘り返し、必要以上に知ろうとする迷惑な人間と、それとは正反対に自ら関わろうとはせず、情報をこちらから遮断しようとすらする人間――自分が人に深くまで知られたくないから自分も、だとか、付き合っていくうえで不要だと判断したから、だとか、理由は人によって様々だとは思うけど――がいて、私はどちらかと言えば後者に属す人間である。前者に当たる人間でも人並みに空気を読むことを身につけていれば、時と場合を弁えるくらいはするはずで。推薦入学という彼の実績から実力を悟り、失言を犯さないよう、深くまで突っ込むような愚かな真似はしない。
ぴりぴりとそこだけ世界から切り離されたように張り詰めた空気のその場所を私はうっかり御手洗いまでの通路に選んでしまい、引くに引けずに壁に背中をくっつける形でその場に留まる、という爆豪君と同じ行動を取ってしまった。
降りてくる、轟君の独白に。
押し寄せた人々が奏でる普段以上の喧騒がその場から遠のいた。
耳で聞いて、だけど頭は廻らなくて。なのに言葉は、多分肌から、神経にしみ込んでくる。
ただ私は恐ろしかった。何が、と問われればすぐに答えを見つけ出せはしないだろうけれど。
その瞬間、私は彼に同情を持ってしまったから。それによって、自分の中での轟焦凍という少年像が、崩れ去ってしまいそうだったから。
一人で――実質三人だが、意図せず盗み聞きをしてしまったことは口が裂けても言えないから違いない――抱えて置くには大きすぎる秘密に、どうしようもなく大きな不安に横目でちらりと爆豪君を見遣る。直後、髪色と同じように色の薄い眉毛を逆立て、その下できっ、と鋭くされた赤い双眸を何見てんだという文句を言外から肌と感じると、私は自分の爪先に視線を伏せた。きつく、拳を握りしめ、唇を噛み締めて。視線を床から逸らさずに踵を翻した。
左胸に押し当てた拳の下、握り潰されたように縮こまる心臓がきりきりと軋んで嫌な音を鳴らす。潰されて、縮んで、小さくなって、そうしていつか私の心臓は消えて無くなってしまうのではないか。
正体の見えない漠然とした恐怖。それが本当に恐怖と名を付けてもいいものなのかもわからない。

二度目は今この瞬間に訪れた。
彼の口から飛び出た言葉の中から“好き”の二文字が切り取られ、消化を成されずぐるぐると頭の中を回り続けている。
他の生徒達が去っても尚、来る明日に向けてその有り様を変えずに残し続ける空間の片隅。1−Aの教室の隅から隅まで並べられる大きさの揃えられた机達の中、どうしてだか彼と私はそのうちの一つを間に挟み、向かい合う形で対面していた。机の上に置いてある私の手の甲にどうして彼の骨の浮き出た手が重なっているのか、という疑問は旋風の如き発言に瞬時に吹き飛ばされる。え……、とこぼれた声にも開いた両眼にも歓喜の光は微塵も宿らない。一度たりとも望みはしなかったのに、これは願ってもいない奇跡に違いない。わかっている。じゃあどうして今自分はこんなにも喜んでいないんだろう、と自問をしてみせるけどそれは自作自演に過ぎなくて。
甘美な夢の中から突然現実に引き戻された時に味わったあの感覚に近い、これは。
私はこの気持ちの名前を知っている。――幻滅、だ。
好いた相手に幻滅したくなかった。がっかりしてしまうのが怖かった。私は彼を一目見て特別だと感じたから。だから、心の奥の思い出の、触れるだけで痛みそうな、脆くて弱い、そんな場所に触れてしまうことを恐れた。触れてはいけない。触れてしまえばその瞬間から彼をただの憧れの人にしてなど置けなくなる。同情だなんて以ての外だ。もし抱いてしまえば私の中での彼は私と同等か、最悪それ以下の存在として脳内で位置づけられてしまう。そんなことはいけない。あの強くて綺麗な人をそんな風に見ることは万死にも値する大罪なのだ。
憧憬は憧憬のまま。神格化と云って良い。
彼は、もしかすれば私以上に弱い部分を持っているのかもしれない、なんてそんな勝手な勘違いなど間違えても犯してはならない。
彼は、私とは違う。生まれも、強さも、美しさも、全て。
自分の中で神格化された少年は、私なんかを視界に入れて目に止めて、余所見をするわけがない。
私が好きな轟君は、私なんかを振り向かない。
刹那、私は脱兎になっていた。否、なろうとしていた。

「人の告白聞くだけ聞いて逃げ出すやつがあるかよ」

つい先ほどまで触られていた手は、彼からすればさぞ掴みやすかったことだろう。引いた椅子と机との隙間に立ったまま捉えられてしまった私は、こくはく、という復唱を口内に押し留めた。

「……いますぐ答えろ、とまでは言わねえが。傷付くだろ」

下から注がれているにも関わらず強く心を揺さぶる二色の視線。私の姿勢が悪いから、だろう、中心から真っ二つに割ったみたいに綺麗な別れ方をしているはずの、彼の二色の髪の面積が上から見ているとはいえ揃っていない。自分の身体の揃わないバランスを自覚しつつ、静かにこちらを射抜く色の揃わない双眸から逃れる術を見つけ出そうとする。轟君の男性的で、それでいて綺麗な手が私を解放しても、それはもとより物理的な問題では無かったのだから何ら変化はない。私はいつまでも囚われの身のままだ。

「……轟君は私のことなんて好きになるはずないよ……」

だって、轟君がみんなと同じな訳がないでしょう。ましてや、私のような奈落の底を這っているような人間を好いてくれる訳がない。もしもそんなことが起こったら、彼は自ら自分を貶めるような真似をしたことになる。
私は轟君とは付き合えない。意志を明確に表し、言えば、彼は「……あぁ、だろうな」と彼は睫毛を伏せて零す。
叶わない恋だった。報われない想いだった。それは私が私であるせいだ。

「私、轟君のこと好きだった」
「だったらなんで振ったんだ、今」
「私のことが好きな轟君は嫌いなの、好きに成れない」

きっとがっかりしてしまう。
だが“がっかり”するのは彼ではない、私だ。
自分の中で彼を作り上げてしまっていることに気付いていたから。勝手に作り上げた彼に焦がれていることに心のどこかでは気が付いていたから。思い描いていた彼と差異のある現実の彼を受け止められない。その差異が、自分への好意から生じたものでも我慢ならない。私が愛しているのは何なのか、答えも全部何もかも最初から見失っていた。
彼の開いた唇が、動く。

――お前は、俺の好きなやつを否定すんのか?


2017/04/23

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