短編

僕らだけの呼吸法


いつからだろう。違和を感じるようになったのは。
どうしてだろう。その恐ろしく綺麗な微笑みに疑いの念を抱けてしまったのは。
精密な造りものなのではないかなんて思考をふっかけてしまうほどの隙など無い、完璧で完全なものであるのに。
それは紛れもない変化であり、異変、だった。

どうぞ、入って。と通されるまま進み入る、なまえの寮部屋。
かつん、と自分の爪先が蹴り上げたらしい何か小さくかたいものが床に転がった。視線を落とし、指で摘まみ上げてみる。色は群青、形としては四角形に近いのに所々がでこぼことした形状のこれは何なのだと数秒間、轟は首を傾げていたが、暫くして嗚呼と正体に気付く。これは、欠片だ。それもパズルの。繊細に描かれた、満天の星の中に凛と佇む美しい城を形作るジグソーパズルのワンピース。だがおかしい。あのジグソーはなまえの部屋の壁にでかでかと、それこそ見てくれと言わんばかりに飾られていたはずなのに。視線を馳せた壁はといえば何もかも取り外され、まっさらとなってしまっており、うら寂しい。次いで目を向けたなまえの勉強机の上には一部が崩された城のジグソーパズルが置かれており、その下の床にはばらばらと零れ落ちてしまったらしい城の欠片が散乱している状態だった。

「壊れたのか?」
「何が?」
「ジグソー。壁かけてあっただろ」
「あぁ、うん、なんか、ね。落ちたらやだなって。そこに誰かいたら怪我しちゃうかもだし……。だから、なんか、……なんとなく、だよ。飽きたのかな。わかんないや」

手あたり次第に言葉を羅列していく姿はもじゃもじゃとした頭の彼を連想させたが、しかし思考を表に駄々漏らしているだけの彼と言い訳を探し出そうとしているなまえとでは言葉の裏に隠しているものがまるで違う。

「……お前、どうした?」

何かあったのか、と問ってみるが、ううんなにもないよ、といつもの柔和な声音が返ってくるだけだった。だがすぐに、「ごめん」と睫毛を伏せるなまえは唇から謝罪を零す。

「みょうじ?」
「ごめん、ちがうの。ほんとうは、なにもなくないの、全然」

***

「ヒーローだから、かもしれないけど、ヒーローなのに戦わなきゃいけないでしょう。それが、嫌で」

余所行きの柔らかさもあたたかみも愛想も、全てを取り払った、恐らく彼女の素なのであろう飾らない声色に乗せられて。紡がれていく言葉は静かに矛盾を積み上げていく。

「体育祭の時にね、トーナメントで負かした相手のすごく悔しそうにしてるところ……悲しそうにしてるところ、見てから、駄目になったの。戦えないの。傷付いてる人を見たくないからって目指してたのに、自分が傷つける側になってる。大事な人の笑顔とか、守りたかったのに。なのに、悲しませてるの私なんじゃないかって」

行事なのだから仕方がない。それで全てが片付いてしまうのなら一体どんなに楽だっただろうか。例えば18禁ヒーロー・ミッドナイトのように相手を眠らせてしまう個性であれば誰も傷つける事無く、誰とも戦うことなく平和に任務を終えることだってできた。自分が同級生の瀬呂範太だったら、耳郎響香だったら、八百万百だったら……もっとやりようもあったかもしれないのに、と思考の螺旋から抜け出せない。
突き進めば突き進むほど、貫けば貫いた分だけ、自分の目指す英雄像からかけ離れていくようで。己の抱いた夢は、他人の大切な夢を折ってまで手にしたい物であったのかがわからなくなってしまったのだ、と。
少女の独白を聞き終えて。色の揃わない双眸をゆうるりと持ち上げる轟は、真っ直ぐに彼女を見据えて。

「お前、とんでもないエゴイストだな」
「…………え」
「だってそうだろ。戦うのが怖いってだけならまだわかんねえこともねえが。その理由が相手の負けた姿を見たくないっつーことは“自分が勝つ”ことが前提としてあって相手憐れんでるんだろ? 理由つけてる割には、勝利しか見えてない。エゴイスト以外の何なんだ?」

目の前にあった顔は鳩が豆鉄砲を食らったような。ぽかんと口を半開きにしたなまえの、間の抜けた表情だった。

「別にそれを否定するつもりはねぇよ」
「……うん」

だが、と繋いで。

「自分の欲のために相手を蹴落とすのが戦いってもんだろ。それは何も敵に限った話じゃねえ」

ヒーローとて誰かを救う大義名分を背負っているというだけで、戦う理由は“救いたい”という己の都合やエゴを貫き通すためなのだから。そのために目的を阻もうとする悪を挫く。力をふるうのが己のためか、他者のためか。違いなんていうものは案外無いもので、正義をかかげる英雄たちもある意味では利己主義の塊だ。
ともすれば表裏一体である光と闇だが、しかしそこで己の夢まで見失うわけにはいかない。

「お前はどうなりたいんだ?」
「私は……――ヒーローに、成りたい。」

いいん……だよね。エゴイストで。
そうだ。それでいいのだ。開き直ってしまえばいいのだ、と。
迷いや、恐れ。くるぶしに絡みつくそれら不の情を引き離そうともがくなまえ。嗚呼、と淡く笑む轟が立ち上がろうとする彼女の心を引っ張り上げた。


2017/03/17

- ナノ -