短編

チョコが好きな悪魔はいない


もうすぐ、月が壊れたあの日から1年になる。次は地球がこうなる番だという宣戦布告とも取れる衝撃的な事件であったというのに、しかし世間は呑気なもので。クリスマスももう2ヶ月前の過ぎたイベントだ。
大切な、あの人に。今年こそ、彼に。有りがちな謳い文句があちらこちらの店先にぶら下がり、チョコレートカラーで街が溢れる中、年中勉強漬けである教室からは当然ながら甘やかな香りなんてものはしなかった。
年齢不相応なまでに色恋沙汰に無関心で可愛げのない教室は、放課後になってもそのありようを変えることはない。伽藍堂の静けさに散らばる先ほどまでいた生徒の残滓が、口の中に放り込んだ小粒のチョコレートの甘みを舌に絡みついてくるだけの不愉快さへと変えて行く。
勉学と、休息と。やはり場所は分けるべきだと、ただ知識を詰め込んだだけの不気味な群れが居た場所で食べるべきでは無かったと、空っぽの包み紙を睨みつけた。

「お疲れ様、浅野君」

がらり、滑らかに開けられた扉から姿を現した恐らくは生徒会室帰りであろうA組のエース殿に声を投げ。とても綺麗な精密な作り物の微笑を湛え振り返った浅野君に、はい、これあげる、と彼のしなやかな掌にチロルを転がした。ありがとうと笑みを崩さず口では言うけれど、目は口ほどに物を言うもので。「これは何のつもりだい?」言外に疑いを問われてしまった。

「どう致しまして。やだな……。餌付けとかじゃないったら。チロルチョコで浅野君手懐けるのはさすがに無理だよ」

言うと、彼はふっと鼻で笑う。

「分かっているじゃないか。有り難く受け取っておこうかな」

やはり彼は美しい人だ。動作の一つ一つが――包み紙を開く動きですら目を奪う程に流麗で、優美で、次第に位置を低めて行く冬の陽光ですら味方に付けて。眉目秀麗とはこの人のために在る言葉なのではないだろうか。この作り笑いが酷く上手い、綺麗な才人のために。

「勉強中に甘味を取ると効率が良くなると言うだろう。世間はバレンタイン。せっかくだからA組でびりっけつの君に試してみようかと思って僕もチョコを持ってきたのだけど。どうやら必要無かったようだね」
「えっ、必要無くないよ、浅野君。頂戴、無駄になっちゃう」
「みょうじさんに思ったような効果があらわれずに僕の財布に無駄になってしまうのはいいと?」
「決めつけは良くないとおもいます。ください、チロルのお礼!」
「明らかに僕からの礼の方が3倍はあるよね」
「ホワイトデーのお返しって大体3倍だよ」
「君は本当にこういう時ばかり頭が廻るな、みょうじさん」
「えへっ」
「誉めてはいないよ」
「浅野君のもどうせ良くて板チョコでしょ、いいじゃん」
「どうせ、ね……」

浅野君の手が鞄から取り出したのは可愛らしいハートをかたどった甘い薄紅の箱。何だそれ。まるで恋する乙女が想い人に押し付けるものそのものじゃないか。

「……浅野君、もしかして賭けにでも負けた……?」
「は?」
「いやだって罰ゲームくらいしか思いつかないから。そんな本命みたいな奴、私に渡すとか……」

普通、無いでしょう? 首を傾げた私が向ける眼差しに浅野君への哀れみだとか、そういった情が零であったとは言い切れない。

「……まぁそうなるのも自然か。この僕がみょうじさんのような何故A組に在籍できているかわからない、人数合わせとしか思えない一般生徒相手に――しかもこんな日に――直々に菓子を渡しているわけだから。疑いたくもなるだろうね、ずっと僕を見続けていたみょうじさんとしては?」
「やだそれすごい失礼な上にデリカシーどこ忘れて来ちゃったんですか浅野君」

しゅる、と耳障りの良い衣擦れ音を小さく響かせ、ほどかれたのはラッピングのリボン。彼の指の間からぶら下がるそれが腕に絡みつき、何か人に熱を持たせるような、そんな色を醸し出す。
攫われた視線と意識の先で蓋を開けた浅野君が指で摘まんで取り出したチョコレートを私の唇の先に押し当てた。唇を開いてみるとぐいぐい強引に押し込まれ、突然の事に「ん、ぐう」と息が詰まった。余りに夢の無い『あーん』だった。べっとりと纏わりつく甘さと戸惑いに支配される脳を必死に回転させてどうにかこうにか飲み下す。
見上げる浅野君の唇がにっこりと曲げられた。

「付き合って、くれるんだよね」
「え……――えっ」
「甘味の実験に」
「……あ、はい」
「残念?」

残念。残念とは何だ。浅野君からの付き合っての言葉が恋人になってくださいの意味で放たれなかったことか。
みんなの生徒会長様が私のような一般生徒に振り向いてくれる、だなんて少女漫画みたいな夢はさすがの私も抱いてはいない。ただ少しこの甘さによってしまいそうになっている。甘味はあまい。地球は丸い、あるいは青い。それと同じぐらいに当たり前の事だけれど。


2017/02/10

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