短編

ひなた雨の庭凍 前編


彼女は或る隠れ里にて、二匹の妖獣の餌食となり、花嫁として迎え入れられようとしている。
総身の隅々を指で調べられ、唇や胸の飾りは元禄飴を溶かすように丁寧に舐め吸われた。汗も蜜も精も互いのものを混ぜこぜにし、二匹の熱に清らかな場所を穢される。
九尾の狐と猫又が、月光に濡れた女の青白い膝を左右に割る。
彼女は倦怠感の中、己の肢体を馳走さながらに堪能する獣達の腰から垂れる尾を、呆然自失に眺めていた。月影の中で獣の尻尾が揺れ動く。陽を透かして美しく煌めく金色の、九つもある贅沢な狐の尻尾は、淡い月明かりのもとで見るのでは随分違って見える。持ち上げるにも苦労しそうな重たげな九尾の狐の其れとは裏腹に、猫又は細い尻尾を二本だけ軽やかにくねらせていた。
長い交尾だと感じていた。重ね始めた頃よりは速度や激しさは緩和されたが、満ちて引くさざ波のような速度で化け猫は腰を揺らす。
「目、とろんとしてる。きもちいね」
猫は三味線を弾き熟す手で彼女の手を布団から拾うと、その掌に頬を擦り寄せて甘えてきた。こうされていると家へ帰る道を無くしてしまった侘しさも、快楽の波が遠い水平線へと運んで手が届かなくなっていく。
破瓜を遂げたばかりの初々しい窪みを、獣たちの熱で代わる代わる広げられる夜。生娘でなくなったばかりの彼女の躰を酔わせているのは、散々口に含まされた神酒なのか、それとも精とともに胎に収められた奇妙な妖術なのか。愛液と精液を潤滑油に代用しながらぬるぬると出入りを繰り返され、きっと限界に至っても、またすぐにそれを硬くして二匹のどちらかが覆いかぶさってくるのだろう。もうやだ、だめもっと、その押し問答をここまで連ねてきたから諦めの境地だ。
「君はとても酷い死に方をしたんだ」
口火を切ったのは、己を抱いている猫又だった。
「昔の君はね、人間と結婚したんだよ。けれど嫁ぎ先の旦那は酷い暴君だったから、村民からも恨みを買っていて。村民による暴動に妻だった君も巻き込まれて死んでしまった。俺もこいつもとてつもなく後悔した。人間としての幸せを尊重するとか、甘いことを言っていないで、早くに囲ってしまえばよかったって。――それから俺達は君が生まれてくるのをずっと待っていたんだ。知人の天狗に、毎年各地で生まれてくる子供の中に君の転生体がいないか調べて貰って、何百年間も、ずっと……」
神通力を獲得している天狗は、天眼通という生きとし生ける物すべての輪廻転生を見抜く慧眼を有するのだそうだ。
その言葉が真実なのだとして、ならば、自分を待つ、ただそれだけのために、彼らは同じ季節をどれだけの数繰り返したのだろう。稲穂が枯れて、そしてまたそれを植え、実らせる事を、一体何度執り行ってきたのだろう。
「そうして待ち続けていたら、貴女はまたこの村に生まれてくれた……。運命でしょうか。それとも、貴女から選んでまたここに生を受けてくれたのですか?」
月明かりに濡れた妖狐の九つの尾は、その美しい毛並みを銀白の草原のように夜陰に朧げに輝かせていた。ふわり、と微笑む九尾の狐はきっと回答を望んでいたわけではないのだろう。ただ彼女の存在が確かであることをいまいちど確認するように、淡い毛並みに映える小麦色の手をこちらの頬に這わせる。
――私は、私だ。
神秘ともあやかしとも縁のない、つまらない村娘。知らない前世の面影を求められても、報いることは出来ない。懐古的な二対の瞳で彼女を愛する獣達の期待は、その肩には過積載だった。彼女は恐れ多くも紡ぎあげる。
――私という人間は、どこまでもつまらない私なのだ、と。
「魂は替えられやしませんよ」
そう言って、化け狐の手がそっと彼女の鎖骨にかかる髪を背中へはらい、流した。狐が深く唇を吸う。

◆◆◆

時は遡る。
その日は特に風が賑やかな日だった。
昼時を過ぎて、実家の料理茶屋の客足がせせらぐ小川のようになだらかとなった頃、私はどこからかやってきた木の葉が屯する店先を掃くべく、箒を持って表に出た。横長の椅子にかけられた布が疾風でよれてしまっていたので、それをぴんと正し、日除けのための蛇の目傘も曲がってしまっていたため、足りない背丈をつま先立ちで繰り上げて、それを直そうとする。しかし指先は虚しく虚空を切るだけ。さらには伸ばした手に意識を込めていたばかりに、箒を握っている方の手がおざなりになり、柄を手のひらから滑らせてしまった。かたん、と道に転がる箒に、踵を浮かせた不安定な足が縺れ、躰が大きく前へと傾く――。
「わっ……!」
「――おっと」
覚悟していた打ち身の痛みはついぞ遅い来る事は無く、それどころかぽすりと人のぬくもりによって私は受け止められていた。戦々恐々震える瞼をこじ開けると、見慣れない灰色の着物がまず眼球に飛びついた。
「大丈夫ですか?」
頭上から降る甘やかな声音を辿り、顎を上げる。間の悪い風が私を抱きとめてくれたその人の、この国では珍しい色相の髪を舞い上がらせた。
咄嗟の事に頭が混濁し、私は先の問いへの応えではなく彼の名前を口走ってしまう。
「あ、安室さん……っ?」
「お怪我はありませんか?」
「な、ないです」
続け様に確認の問いを投げられ、しどろもどろになる舌で答える。
「はい、落としたよ」
背後から投じられた安室さんとは別の男性の声に振り返ると、安室さん同様、顔見知りである景光さんが私の箒を拾って差し出してくれていた。
「す、すみません、ありがとうございます、景光さん」
「これを直せばいい?」
「えっ、そんな事して頂くわけには……!」
「遠慮しないで。届かないんだろ?」
箒を手渡してくれた手で、景光さんは流れるように私が今しがた格闘していた蛇の目傘に触れようとするので、恐れ多いとそれを制止しようとした。しかしここは男に任せてよ、という彼の言い分は尤もで、実際私では届きもしなかったわけで、甘えさせられてしまう。
安室透さんは雨上がりの稲穂のような陽に透いて煌めく刈安色の髪に、それが美しく映える小麦色の肌、と美貌も色彩も酷く鮮やかだった。この国の四方を囲う海の外には、彼のような不思議な髪の色の人が沢山いるらしい。安室さんが纏う灰色の着物は、襟と、裾の唐草模様に差し色として白雪色を使われている。金色の刺繍が施された紺色の羽織りには袖を通さず、涼しげに肩にかけて、歩を進める都度裾を靡かせている。
諸伏景光さんは黒曜の色の短髪を額の右でふわりと七三に分けて、顎に薄く髭を生やしていた。目尻にかけて睫毛を贅沢に湛えたつり目がちな双眸に、いつも和やかな微笑を描いているため、目つきから厳しい印象は全く受けない。安室さんの瞳が垂れがちな分、お互いがお互いの目元の美点を相互に引き立てていた。こちらは紺色の着物を山吹色の帯で締め、着物よりも一段淡い群青の羽織りを、これまた安室さんとは対象的にきちんと袖を通して纏っている。
いつも安室さんと連れ立って里に下ってくるせいで、何かと人の視線を集める要素に事欠かない彼の影に隠れがちだけれど、景光さんも景光さんでどんな町へ遣ってもその土地一番の美男の座に就ける美丈夫だ。
乙女の崇拝にも似た恋慕を独占する偶像にも等しいお二人に、実家の味がお気に召したとは一体どんな幸運か。結婚の決まっている身で他所の色男に胸をときめかせるだなんて不埒ではしたない事だとわかっているのに、まばゆい彼らを眼前に捉えると脳が炙られて視線が泳ぐ。
「はい、できた。俺達、買い物してきた帰りで、神社に戻る前にお茶でもしようって話してたんだけど……席って空いてるかな?」
「あ、はい。すぐにご案内できます。どうぞ」
景光さん言葉に、私は二人を店の中に通した。多くの客が昼食を終えてめいめいの仕事に引き換えした後の店内は座席の数にも余裕があったので、四人がけの席を贅沢に使って貰う。
――この降谷という村の外れの森の、随分奥まったところには、或る流行神の祀られている神社が孤高に佇んでいる。その神社には海を超えてきた稀人のように背が高く、見目に秀でた神主が務められていて、特に社を統べる宮司様のお手伝いをする身分である禰宜ねぎという見習いの若い男性のお二人は、麓の里に買い物などに出られる度に、若い少女達の黄色い声や桃色の鼓動を集めていた。安室透さんと諸伏景光さんこそがそのまごうことなき色男の禰宜である。
「あの、ずっと気になっていたのですが、お二人は神主様なのにこんなに食べてもいいんですか?」
彼ら以外の唯一の客が店を出てしまうと、あとはもう注文や会計を頼まれる機会もなく、店を懇意にしてくれている二人に話し相手を頼まれた私は、彼らの席に留まっていた。
そんな中、互いに近況を話すうちに気になったのが、彼らの食事だ。名前を覚えてしまうくらいなのだから、安室さんも景光さんも店の常連客で、食事以外にも甘味などの嗜好品も頻繁に召し上がるのだが、果たして宮司様に叱られてしまわないのか、と。
そんな私のにくすくすと笑みを零すのは景光さんだった。
「ふふ。なまえちゃん、俺達をお坊さんと勘違いしてないか?」
「え……?」
首を傾げる私に、今度は安室さんが教えてくれる。
「よく勘違いされてしまうのですが、僕達も皆さんとそう変わらない食事をしているんですよ。勿論贅沢をしているわけではありませんが……。そうですね、お祭りの前には潔斎をして、精進料理に変えるくらいでしょうか」
「そうそう。あとはうちの神使はお狐様だから、狐の肉は取らない、っていう決まりさえ守っていれば特には何もないんだ」
景光さんはなぜだか冗談めかした口調で、事更に「狐」の語を強調し、安室さんを横目に捉えながらそう言った。そして安室さんのじっとりとした視線をにこにこと受け流しながら、「風見さんなんかはきちんと娯楽を断ったり、寝具の決まりを守ったりしてるけどな」と続ける。風見さんとは確か宮司様のお名前で、禰宜である二人の神主としての上司にあたる身分だったはずだ。
「結構良いもの食べてると思うよ。俺も安室も、料理には凝る方だから」
「お料理されるんですか?」
「ヒロは上手いですよ。なにしろ僕に教えたのもこいつです」
尽きないお喋りに水を刺したのは斜陽だった。勘定と机の上の空の食器の数が、健やかな男性二人の腹の底知れなさを示している。
「そうだ、なまえちゃん。今日は戸締まりをしっかりして夜は家から出ないように。不吉な事が起こるかもしれない……」
退店の間際、暖簾をかき分けながら思い出したように私を振り返った景光さんが言った。
「不吉な事、ですか」
「実は風見宮司の占いの結果が芳しくなかったんです。最近の流行り病の事を示していたという可能性もありますが、念には念を入れて、ね……。ですがご安心を……なまえさんのご自宅の方に凶兆は見られませんでしたから、ヒロの言う事さえ気をつけていれば悪い事は起こりませんよ」
「は、はい、気をつけます」


安室さんと景光さんの花紺青の双眸は千里眼なのではないか、と私は疑わずにはいられなかった。
その晩、誠に村で悲運な出来事が起きたのだ。夜を揺るがす騒動の音で心臓に汗を掻きながら、様子を見に行くと言って出ていこうとする父を引き止め、家の戸を決して開けなかった私が事の次第を把握するのは家屋が朝日に焼かれてからである。
私の婚約者の家が夜襲に遭った――乳白色の朝焼け共々、そんな悲報が舞い込んできた。医者の家に運ばれた婚約者の両親は虫の息ながらまだかろうじて息があったけれど、私が駆けつけて間もなくに息を引き取った。婚約者は、頭部が陶器のように砕け散って、躰がかき回された雑炊のようにぐちゃりとなっていて、身につけていた着物から身元が判別されたと聞いた。
目撃者の声の中に、夜襲の行列には死者が入り混じっていたというものがあった。村内の平和を覆す一大事に気が動転していたのだと断じようにも、証言はひとつやふたつではない。目撃された顔のどれもが、つい先日病に倒れて亡くなった人間で、町では死人が黄泉から帰ったのだと噂が立つ。終いにはあの森の奥の神社の宮司様が里に舞い降りて、まじないの儀式を執り行い、それを機に広がった安堵が事態に収束を齎したと言う。
残忍な転機となったその日から塞ぎ込んで、店にも立たなくなっていた私は、噂の収束を風の噂で知った。
数日が経ち、食欲が戻りつつある頃、私に来客が訪れる。――安室さんと景光さんだった。
「お悔やみ申し上げます。災難でしたね。あのような形で許嫁を亡くされて……」
「ご愁傷さま。やっぱり顔色が悪いな。君が塞ぎ込んでいると聞いて、少しでも元気になってくれたらと思って、今日は水菓子を持ってきたんだ。風見さんが貰って来たんだけど、俺達じゃとても食べ切れないから……」
二人の手土産は桃だった。さも沢山あって困っているという言い草も、懐から小刀を取り出した景光さんがその場で剥き初めたのも、きっと私に断らせまいという配慮だろう。つう、と皮というより膜と表すべき薄さの表皮を寝かせた刃と指で剥き、手をまな板代わりにひとかけ切り分ける。
「口、開けて」
あまりにも流麗な所作で景光さんは切り立ての桃を私の口元に運ぶので、私は餌付けされる畜生のように頬張ってしまった。面白がった安室さんもそれを真似て二切れ目を私に出ずから食べさせようとするので、果汁に潤わされた唇を割り開く。
「あの、自分で、食べられます……」
「そうですか?」
と、言いながら安室さんは桃を私の唇に寄せてきた。尻込みをしている間にも彼の小麦色の指を汁が伝い、付け根に差し掛かろうとしている。困って彼の垂れがちな瞳を仰ぐと、はやく、と視線で急かされた。後には引けなくなってぱくりと食べると満足そうに微笑まれる。
「ん、甘い……。いい桃ですね」
安室さんは自身の人差し指の先端からその付け根の、指と指の間にまで真紅の舌を這わせ、果汁の水滴を口腔に迎える。それがなんだか見ていられなくて、私は布団の上で重ねた手の指を組み替えながら視線を外した。
「おかわり、いるか?」
尋ねてくれる景光さんだがその手はまたしても私に食べさせる事を前提として切り分けた分を摘んでおり、そして愚かしい私は果実の甘い香りにまどろんで、頷く。
結局、私は桃を全て平らげてしまうまで、二人の美丈夫に口まで運ぶ箸の役割を担わせ続けていた。
景光さんと安室さんがお帰りになり、しんと静まった自室。布団の隅に景光さんが使っていた小刀が転がっている事に気づいたのは、もう追いかけても間に合わないほど時間の過ぎた後だった。


安室さんと景光さんの見舞いのあった日の翌日は、私の足を削ぐに足る大雨だった。なのでもう一日跨いだ二日後、私は忘れ物の小刀を届けるべく、森の奥の神社を目指す。
洗いたての若葉や若草が青々と茂り、濡れた砂と花の香りが芳醇に肺を満たした。露をかぶって色を濃く染めた地面に景光さんの髪色を想起し、燦燦と照る陽や雨水に艶めくすすきの草原に安室さんの髪色を想起する。
蒼穹はどこまでも続くかに思われたが、山向から鈍色の陰りが迫るのを認め、帰りは早足にならねばならないと心に決めた。
川のみなもの乱反射に目を細めながら登り坂を歩んでいた折の事。下駄の鼻緒が不吉に千切れた。ちょうど踏み出したところだった足は、そのまま下駄をするりと落として湿った道を踏み、さらに着地を見誤って真横にひっくり返る。捻った、と思う間もなく、ぐきり、と関節が軋んだ。くるぶしの痛みに顔を引きつらせた私の躰は横に倒れるけれど、地面を素通りして川に面した斜面へと落下した。
「わぁっ!」
そのままあっけなく転がり落ちていく。背の低い木の枝に着物の裾が引っかかり、びり、という破損の音が鼓膜を劈くけれど、傾斜と擦れながら落ちる躰は止まらない。頬も肘も膝も擦れてついに血を噴いたけれど、鮮血はそのまま落ちた先の川の水がすぐさま洗い流した。
藻掻いて、藻掻いて、ぷは、と水面を頭で突き破る。立ち上がってみれば私の膝にも届かないほどの浅瀬で、胸をなでおろしながら遠くない岸を目指した。しかし昨夜の雨が氾濫を招いていたのか、川の流れは刮目に値するほどに速い。片足を挫いたせいもあり、膝下を舐める一見無力な水に押し負け、私はまた転んだ。口の中に濁流が迷い込んでくる。
「こっちか!?」
「あ、いた!」
先程転げ落ちた斜面の上から男の声が降った。どちらもやたらと耳に馴染むと思えば、上から顔を覗かせたのは安室さんと景光さんだった。草をかき分けて兎のようにとんとんと川まで駆け下りてきた二人が私を陸に引き上げてくれる。
枝に引っ掛けた着物はやはり破れていた。その下の皮膚にも枝先に引っ掻かれて亀裂が走っており、視認すると脳が痛い痛いと叫びだす。着物の前が乱れて覗く太腿は裾を閉じ合わせれば隠せたが、破れた切り込みはどうにもならない。せっかく命拾いしたというのに恥じ入る思いでいると、景光さんがご自身の羽織りを脱ぎ、私の帯の上から腰に巻いてくれた。
「あとは止血ですね……」
指を顎に添えた安室さんもまた自らの羽織りを脱ぐと驚くことにそれを破り、手頃な太さの布に変えるとそれで私の血を噴く腿に結びつけた。
「す、すみません……。必ずお代はお返ししますから」
「気にしなくていいのに。無事で良かったよ。なまえちゃん、その足じゃ森を抜けられないだろ。神社においで。もっとちゃんと手当してあげる。いいよな、安室」
「えぇ、ヒロが言わなければ僕から言おうと思っていました」
勝手に話を勧めてしまう彼らに私はまた困ってしまう。けれども景光さんの言う通り、捻挫と切り傷と沢山の擦り傷を抱えた躰で草木を掻き分けて帰路に就く自身も無くて、ただ忍びない思いでその親切に縋る事とした。
では……、と言った安室さんが、しゃがみこんで私に背中を向ける。
「乗ってください。僕がおぶります」
「ぬ、濡れちゃいます!」
「じゃあ俺にする?」と、景光さんが口を挟む。
「どっちでも駄目です!」
「お気になさらず。山菜採りの途中だったので、汚れても良いものを着ています」
そんなの嘘だ。だって二人がこの着物を着て麓まで降りてきた事は今までに何度もあった。俗世の人間の眼に触れられても困らない、それなりの装いのはずである。加えて採集した山菜を運ぶための籠も背負っていない軽装が、偽証を更に裏付けていた。
安室さんの広い背中におぶさるには、かなり足を開かなければならなくて、恥じらいに心の骨が折れた。
私と安室さんのそれぞれの荷物を持った景光さんが、神社までの道を先導してくれる。
木漏れ日も届かない青い木陰の奥、地上にありふれた緑や土の色の中で頭一つ抜けて目立つ真紅の鳥居が私たちを出迎えた。鳥居の手前には、すべらかな象牙色の狐の像が、閉じた吊り目と鼻先をつんと空に向かせ、鎮座している。雌雄一体であるという狐像は道の両脇を挟むように一つずつ佇み、守護しているかのようだった。
鳥居から神社までの道は神様のためにこさえられた神聖な道だから、我々人間は中央を歩いてはならない。丁寧に道の右端を下駄で踏んで歩いていく安室さんの背中で、私はここまでの道程とは比べ物にならないほどの緊張感に身を強張らせていた。神々と同じ舞台に登ってしまったのだ、と。何しろここに来たのは子供の頃にお祭りに参加して以来の事で、勝手がわからない。
「随分早く戻られましたね、降――……安室さんの客人ですか」
参拝客が手を合わせる拝殿の掃き掃除をしていた神主の男性――風見宮司が私をおぶる安室さんを見るなり、紡ぎかけた言葉をうちとめて眼を丸める。
「川に落ちて怪我までしてしまったらしい。着替えを貸して、傷の手当てもしてあげようと思ってね。ヒロと奥を使うから立ち入らないように頼むよ」
「わかりました」
不思議なことに風見さんは安室さんに畏まる。同じ神主という職についているこの三人だが、宮司の風見さんと、その補佐である禰宜の安室さんに景光さん、という位置づけのはずだ。特に若々しい安室さんはこの面々の中でも若年と見受けられるのに、風見さんが頭を下げるなんて。
「風見さん、人間用の治療の道具って社務所の方でしたっけ? お借りしてもいいですか」
「構わないが……少し奥の方に入れてしまったからわかりにくいかもしれない。一緒に行こう」
景光さんと一緒に社務所という神主達が控えている建物に足を向ける風見さんは、ごく一般的な部下に接する上司の振る舞いだった。どうやら安室さんにだけ敬語を使うらしい。そしてそのともすれば風見さんよりも偉いのかもしれない安室さんと、風見さんの部下の景光さんは友人のように気安く話す……。妙な関係だと思った。
安室さんは私を背負ったまま、御社殿のうち幣殿も本殿も過ぎ、敷地の奥へと足を進める。緋色の彼岸花が絨毯のように敷き詰められた小道を通り、緩やかな傾斜のある坂を登る。大きな樹木が枝葉を広げ、天蓋のように空を遮っているにも関わらず、陽の光は鮮やかで、足元に不安はない。輝くような森の坂道は幻想的で、この世ならざる気配すらあった。
――こんなところ、あったっけ。
安室さんの背から見る景色の全てに覚えがなくて、私は花にも木にも目を奪われる。
「綺麗でしょう。彼岸花は、狐の剃刀とも言うんですよ」
「剃刀、ですか」
「見事な赤い花を狐火、葉を剃刀の小さな刃に見立てて名付けられたんです」
森陰にぽうっと明かりを燈すように咲く緋色の花たちは、目を細めて眺めていると、確かに狐火が妖しげに躍動しているようにも思える。
坂を登りきった先には、ぽつんとお屋敷がひとつ佇んでいた。手入れの行き届いた立派な屋敷だが、村の人々の話題に登ったことは一度もない、まさしく初めて見るものだ。勇気のある子どもたちが頻繁にこの森を遊び場にしているから、とっくのとうに見つかっていてもおかしくないのに、私は屋敷の存在を初めて知った。
縁側に私を座らせてくれた安室さんは、がらがらといちばん近くの障子を開けて、畳に褐色の裸足を乗せる。そして手ぬぐいと着物と帯を抱えて戻ってくると、それを私に持たせ、開けたばかりの障子の奥の部屋を顎で指した。
「そのままでは風邪を引いてしまいます。着替えに使ってください」
「ありがとうございます」
捻挫している足を庇いながら私は入室し、後ろ手に障子を閉めた。ぴんと張った和紙の上に安室さんの背丈に恵まれた影が落ちていて、視線を遮られているとはいえ帯に手をかけるのが気恥ずかしかったが、心を読まれたのか彼は踵を返してしまった。遠のく足音を耳で拾い、腰巻きとして貸して頂いた、景光さんの群青色の羽織りの結び目を解く。縦に大きく破れた着物の切込みには、安室さんの紺の布に金色の刺繍が施された羽織りから作られた即席の包帯が結ばれており、それは血を吸って赤黒く色を変えていた。
傷口に気を使いながら帯を解いて着物と襦袢を脱ぐ。泥や、切れた葉などをくっつけた肌を手ぬぐいでそっと拭き、着替えの着物に袖を通した。貸し与えられた着物の寸法は、眼を見張るほど私にぴったりだった。ここの神主は三人とも男性で、巫女はいない。女性の影などないはずなのに。
「なまえちゃん、着替え終わったら教えて。傷の手当をするから」
す、と障子に浮いた影が景光さんの声で喋った。脱いだ襦袢をくしゃりと丸めて着物の陰に隠し、もう大丈夫です、と答えて障子の窪んだ引手に指を差し込むと、向こうから開けられる。
「そこに座って、着物まくれるか? ああ、俺の羽織り、腰にでも掛けておいて」
「は、はい」
足を伸ばして座った私は、そっぽを向いていてくれる景光さんの前で着たばかりの着物を乱す。腿の付け根の手前まで裾を捲り、来る途中、腰に巻いていた彼の羽織りをひざ掛けのように使い、傷よりも上の肌を隠した。大丈夫です、と言うと、私の前にしゃがみこんだ景光さんが即席の包帯を解いた。べり、と乾いた血液が皮膚に引っ付いていて、離れる時に引っ張られ、痛い。
「わあ、痛そうだな。大丈夫?」
「は、い。少し」
「傷はこれと、打撲や擦り傷だけかな?」
患部の周辺をするりと撫ぜながら問う景光さん。それだけで痛みは和らぐ気がしたけれど、代わりにくすぐったさが肌の中の骨を焼いた。
「反対の足も挫きました……」
「両足かぁー。災難だったね」
困ったように猫目を細めた景光さんが、何枚か持ってきてくれた手ぬぐいで血を拭き取り始める。汚れをすっかり除去し、避けた肌が露わになると、救急箱の蓋を開いた。とろりとした塗り薬を乗せた指先が私の腿を往復する。いいこいいこをされているみたいで、失いきっていない童心がくすぐられた。彼の手の上で余ってしまった薬は、顔や肘や膝の擦り傷の上にも分け与えられた。
「どうして雨上がりの川に近づいたんだ? 水嵩が大したこと無くても、流れが早いと人は簡単に溺れ死んでしまうから、危ないよ」
「ち、違うんです。神社に行こうとしていて、足を滑らせて」
「そうなのか? じゃあここに連れてきたのは正解だったわけだ……。お参りでもしに来たの?」
「えっと、これ……」
私は畳の上にある着て来た方の着物に手を伸ばし、小刀を取り出す。景光さんはご自身の所有物であるそれを見て、すぐに合点がいったというような顔になった。
「ありがとう。てっきり失くしたとと思ってた」
「いえ……なのに、却って迷惑をかけてごめんなさい」
薬を掬っていない方の手でそれを受け取り、自身の懐に挿し込んだ景光さんがきょとんと目を丸くする。その瞳の表情は、夜陰の中で座り込んでいる野良猫のようだ。
「どうして? 俺の為にここまで足を運んでくれたんだろ? なら、なおさら無下にしなくてよかったよ。ここの神様に呪われてしまう」
ここの神様、なんて。使えている相手だろうに、随分他人行儀な物言いをなさると思った。
「手当も、ありがとうございます」
「それはしょっちゅうだから大丈夫」
「しょっちゅう?」
「安室がよく怪我をするからね。手当てには慣れてるんだ」
「そうなんですか? 意外です……」
「あいつは無茶をするから。なまじ実力があるだけに、できるという自負があるのか余計にね。こんな事しなくても、術で治してしまえるんだけど、治癒の術も使えないくらい疲弊して帰ってくる事も稀にあるんだ」
術、というのは医術の事だろうか。それとも神主だから神秘的な方法で傷を塞いでしまえるのだろうか。いずれにせよ彼の評価からして安室さんは禰宜として大変に優秀なのだろう。
太腿の一番大きな傷と、反対の足の捻挫に包帯を巻き終えると、ぱたんと箱の蓋が閉じられた。
「ヒロ、終わったか?」
「今丁度な」
開けた障子から顔を覗かせた安室さんと、二人は友人のように砕けた口調で言葉を交わす。
「あの、私、そろそろ、」
帰ります、と続けようとした所で、庭先に降るささやかな霧雨に睫毛を揺らす。神々しさすらあるほどに空はあまりにも明るく光り、そして静かに降り出したせいで、雨の訪れにまるで気が付かなかった。
「天気雨、ですか……。狐の嫁入り……とも言いますね。狐を眷属にするお稲荷様の社で見るのも風流です」
雲間から差す陽光と同じ淡い金色の髪を揺らし、庭を振り返った安室さんが、嗚呼……と目を細める。
「こんな雨ですし、着物もまだ乾いていません……せっかくですから少し休んでいってください。お茶でも入れましょう」
「そ、そんな、申し訳ないです……」
「ここであなたを帰しては僕が稲荷神に怒られてしまいますよ。それに客人はもてなさいと」
稲荷神? 私が首を傾げると、「この神社が祀っている神様だよ」と横から景光さんに教えられた。私は本当に物を知らないと思った。
「また水菓子を貰ったんだ。三人で食べよう。雨宿りだと思ってさ」
腰を上げて水菓子を取りに向かってしまう景光さんの背中が、断ろうとする私の口を塞いでしまう。手伝うよ、と言った安室さんがそのあとを追いかけていき、私は帰る機会を逃してしまった。戻ってきた彼らは急須と皿、それに籠いっぱいの桃を手にしていた。瑞々しい果実は一昨日見舞いとして頂き、あまつさえ剥いて手ずから食べさせて貰った折の甘い味わいを味蕾に蘇らせる。卑しいお腹がぐうと鳴り、笑われた。
景光さんが切り分けてくれた桃と、安室さんが淹れてくれたお茶に交互に口をつけながら、雨音を忘れるほどに二人と話した。
「お稲荷様――ウカノミタマノカミは、所謂流行神……稲荷神を祀る稲荷神社は全国各地に点在していて、この降谷神社もそのうちのひとつなんです。稲荷神は豊穣の神……そのご利益にあやかるために各地に立てられ、信仰されるようになりました。そして大抵どの神社にも狐の像が立てられています。先程表で見たでしょう? これは稲荷神の神使が狐であることに由来しています」
「お稲荷様も狐の姿をしているんですか?」
「いや。あくまでも狐を眷属として従えているだけで、他の神々同様、人間と変わらない姿をしているそうだ。な、ゼロ?」
「……僕も見たことはありません」
学のない私に、博識なお二人は丁寧に噛み砕いて教授してくれる。
教育令が公布されて世代がひとつ変わるほど時が流れたが、家の仕事に駆り出されて学校に行けずに嫁入りの年を迎える娘は多い。私たちの親の世代の大半は学校に行かずに育った人間で、実体験から教育の必要性を重視しない。こんな田舎では貧乏人には学びよりも日銭、女には愛嬌が必須だった。私もまた、そんな無学な女だった。
「知ってる? 桃の核……つまり種子の中心は、神様の居場所とされているんだ」
ひとつの桃を最後まで切り終え、種をころんと皿の隅に転がした景光さんは、それを見て思い出したように言った。
神の住居と思うとただ甘みを舌の上で転がして楽しんでおけばよかった水菓子が、とてつもなく神聖で、歯で噛むことすら烏滸がましい価値のあるものに思えてくる。
「ちなみに同じ様に竹の桿の中も神の居場所とされています」
安室さんの補足に私が連想したのは竹取物語だった。輝く竹を割るとそこから産声を上げた、月の国のお姫様。
「桃は神聖な果物なんだよ。古事記によればイザナギノミコトが黄泉の国へ下った際、黄泉の軍勢に桃の実を投げつけ、撃退できたという話がある。その後イザナギノミコトは桃に“オオカムヅミノミコト”という神としての名前を与えた……。日の沈むところの国では不老長寿の果実ともされているしね」
「そんなものを食べてしまってよかったんでしょうか」
「良いも何も……なまえさんの為に用意したんですよ?」
雲を介さずに雨は降り続いている。まばゆすぎる天泣の檻に囲われた部屋の中、雫に弾ける光のように破顔した安室さんは、どこかつくりものめいて見えた。
さて、幾らか会話を重ねて気づいたことがある。安室さんは以前より諸伏景光さんの下の名前からヒロという渾名で彼を呼ぶことがあったが、景光さんも景光さんで安室さんを聞き慣れぬ渾名で呼ぶのだ。安室透という名前には少しも掠らない、村から禄に出たことのない私では聞いたことのない不思議な言葉で。
雲のように話題に切れ間が出来た頃、ついに私は尋ねてみることにした。
「あの、ぜろって?」
「異国の言葉で、数字の零の事をそう言うんだ。かっこいいでしょ? 俺と合わせてゼロとヒロ……いい感じだと思わない?」
討った将軍の首級を見せびらかすように自慢気に笑う景光さんが教えてくれる。
「どうして安室さんがゼロなんですか? 確か下のお名前は透さんじゃあ……?」
「零というのが、稲荷様から頂いた僕の本来の名前なんですよ。雨冠に命令の“令”で“零”。漢数字のね。姓は便宜上、降谷……。この土地や神社と同じ名前です」
「零、さん……」
どこかで聞いたことのある名前だと思って、私は首を傾げた。
「えぇ、降谷零です。故あって外では使えない名前なので、ご内密に……」
安室さんは一本だけ立てた人差し指を、自身の口元ではなく私の口元に寄せ、指の腹で秘密を封じるようにちょんと唇の先に触れた。それが体験したことのない口づけのように思われ、心臓が飛び上がる。
「照れてます?」
「だ、だって、」
「初心なんですね」
「かわいいなぁ」
かわいい、かわいい、と味わい慣れぬ賛美を端正な顔立ちの両名から口々に注がれ、私の胸の器はすぐにいっぱいになり、当惑として溢れた。桃よりも林檎のように顔を染めた私が黙りこくると、雨音が一際うるさく畳の上に響いていく。水が地面を打つ音に心音すらもかき消された頃、雨脚が本当に激しくなっていることに気がついた。
それから景光さんの三味線の音色に耳を傾けたり、相変わらず二人と談笑したりしながら時間を潰した。
「君、音楽、好きか? 引き方を教えてあげるよ」
そう言った景光さんに三味線を持たされ、そんな私の背後に回り込んだ彼に後ろから抱き込まれるようにして指の位置やチルという弦の弾き方を指南される。私の肩口に薄く整えられた髭のある顎が乗せられ、彼の吐息が耳朶に触れた。こちらの吐息だって、この距離ではばれてしまう。
「あ、あの」
私の鼻緒の切れた下駄を直してくれている安室さんに助け舟を求めるが。
「指が強張ってる……。力、抜いてみて」
「は、い……」
糸巻きの下の上棹を抑える指は、先が白くなるほど強張っていた。景光さんは背後から私の指を包んで、撫でてくる。弦を弾くためのバチを握っている反対の手も彼に握られ、やや傾斜をつけさせられるとそのまま弦に降ろされた。
「弦にも一本一本名前があるんだ。上から順に……一の弦が男弦ウーヂル
一番上の弦が震え、べん、という音が一つ響く。
「二の弦が、中弦ナカヂル……。三の弦が、女弦ミーヂル……」
べん……、べん……、と二本目、三本目も弾かれた。
「――三味線の弦は、男と女なんだ」
それまでは私の肩に顎を預けているだけの景光さんだったけれど、その言葉を囁いた瞬間は、唇と耳の軟骨が触れるか触れないかの距離にまで顔を寄せ、くらくらするほどの色香を纏った声色を作った。
彼は、銀杏色のバチを握っていた私の手を解放する。ほっとしたのも束の間、景光さんの手は丁度楽器の影に隠れた私の足の付根をするすると撫でて。
「……っ、ぁ」
ずる、と三味線を取り落とす。おっと、とそれが畳に落ちる前に手で抑えてくれた景光さんは、先程までの大輪の花のような得体のしれない色香を鞘に納め、笑った。
「女の子には重かったかな。支えていればよかったね」
「い、いえ……」
落としたのは重かったからではないのに、言えなかった。
「頬が真っ赤だ」
「……っ」
「ごめんな。ついゼロとの距離感になっちゃった。ここで生活しているとあまり女性と関わることがないから、勝手が分からなくて」
「だい、じょぶです……」
大丈夫じゃない。安室さんと景光さんってここまで距離近いっけ。肩を寄せているところはよく見るけど、手を握ったり、足を触れたり、なんて。していたっけ。あんなに村娘に人気のある男の人が女性に不慣れなんてこと、あるのかな。何もかも釈然としないのに、私は上手く唇を動かせない。
雨はまだ止まない。雨脚は鉄格子のように天と地面を結び、私をこの屋敷に捕らえる。
安室さん達は夕餉も食べて行くようにと仰ってくれたけれど、幾らなんでも厚かましくて、そして見目の麗しい二人とこれ以上同じ酸素を吸っていると肺が死に絶えそうで、私は日暮れの雨道を下ることを決めた。
「あの、私、やっぱり帰ります」
ぴり、と空気が凍りついた。安室さんと景光さんの、夜に蠢く獣さながらの縦長の瞳孔が私の背筋を氷結させる。
「ごめんな、こんなに天気が崩れるなら早いうちに帰してあげればよかった。いっそ泊まって行かないか?」
「大丈夫です。この着物、濡らしてもいけないので、私が着てきたものを返して頂いてもいいですか?」
「あれ、汚れているしぼろぼだよ」
「どうせ濡れるから変わりません」
私を雨の中に放り出したがらない景光さんの厚意は有り難かったが、それ故に寄り掛かることが憚られる。暫く押し問答の堂々巡りを繰り広げていると、どこかから雨傘を持ってきた安室さんが不毛なやり取りに終止符を打ちつけた。
「これを使ってください」
「ありがとうございます! ついでに着替えをさせて貰っても……」
「それを差し上げます」
それ、とは貸して頂いた寸法のしっくりくるこの着物である。
「でも」
「気に病むならまたここに返しにいらしてください。次の約束の口実になった方が僕らも嬉しい。……勿論受け取ってくださってもいいですよ。この環境で女性物を使う機会が無いことは、なまえさんもわかるでしょう?」
「ありがとうございます。お返しに参ります」
「えぇ、お待ちしています」


「行かせてよかったのか、ゼロ。彼女、濡れちゃうよ」
「自分から諦めるまでやらせてあげたらいい。どうせここからは出られないんだから」
狐は余裕ぶって言った。
「まぁ、のんびり待つか。彼女が生まれる前から待っていたんだ、今更変わらないな」
猫は猫らしく伸びをした。

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