短編

物理教師の口癖が嫌い


※R18



こんな見せあいっこは嫌だ。
溜め息を吐いていたはずの口からは、いつしか熱を孕んだ艶やかな吐息が零れるようになり、結局抗えない己の理性の弱さがこの身で証明される。心はこんなにも抵抗しているのに、躰は獣性に従って快楽に食らいつく、このちぐはぐさ。
安室さんの目があるのに、下半身をかき混ぜることをやめられない。

「ん……っ、ふ、あ……」

容疑者のまばたきの数を数えたり、滴る汗の量を測ったりして、心の機微が表面化する瞬間を見逃すまいとしているときと、寸分違わぬ理知的な碧眼。その眼差しの切っ先が、自慰に耽る私を刺し穿つ。
伏せていた瞳の水の膜が次第に厚みを増してゆき、ついに熱い涙の粒が一つ流れた。

「あぁ、泣いてしまって……」
「あむろさ……もう……っ」

もう嫌です、と紡ぐはずだったのに。

「可哀想に、辛いですよね? でも僕の手は貸してあげられないんです……。あなたが一人でしているところを見せてくれる約束ですから」

約束は固結び。接客中と何ら変わらない柔和な物腰で、安室さんは私を突き放す。突っぱねられた救いを求める訴えが虚しく床に転がった。
自らを慰める様を見られるのも、昇華できない疼きのもどかしさも、我慢ならない。この歳にもなって自慰一つもまともに熟せないでいるのは、安室さんの視線を意識するあまり上品ぶろうとしてしまうつまらないプライドに要因がある。――否、決してつまらなくはない、蜜と汗の香りで思考が既に麻痺しているようだけれど。

「は、恥ずかし、くて……うまくできな、くてっ」

たすけて。喉の奥で弾ける叫び。

「それはできない相談です。あなたが一人でやらないと、ね?」

安室さんの狙いがわからない。一度たりとも彼の心を読めた試しなどないけれど、今日は輪をかけて理解が及ばない。
あやすような声色で意地悪を言わないで、と思った。これでは彼の体温が恋しくて堪らなくなるばかりだ。いつもみたいにとは言わない。でも髪や頬を一度でも撫でてくれたら、快楽の助けになるのに、どうしてか今日の彼は接触を避けてくる。

「僕の顔を見てください」

私はその声に弾かれたように従った。
真っ直ぐに見据える――甘やかな垂れ目、端正な顔立ち、人好きのする笑顔。首を傾げる動作に伴い、さらりと流れる金糸の髪。健やかな印象を植え付ける小麦色の肌。
高い鼻の先が私の顔の目の前にまで寄せられて、心臓が飛び上がる。

「僕に触れて欲しいですか?」
「は、はい」
「どんな風に?」
「え……」
「やってみて。実際に。そして僕に教えてください。僕にどうされたいのか」

さぁ、と促されて、私は泣く泣く行為を再開するのだけれど、彼が言葉の魔法をかけてくれたからだろうか、先程よりも色の濃い官能に背筋が痺れた。
自身の指に、安室さんの骨格に恵まれた長い指を投影し、脚の間の秘密の場所の、浅瀬をゆっくりとなぞる。ベッドルームで安室さんがしてくれるときを真似、円を描くように入り口を縁取り、あくまでもゆっくりと中へと沈めていく。かくんっ、と胎内で指を折り曲げると、指先を包んでいる肉の壁が痙攣し、堪らず眉を寄せた。

「僕のいつもしてあげていることをなぞっているんですか? かわいい人ですね」

安室さんのくつくつ笑いが遠のいていく。
秘めた核をくすぐると理性が置いてけぼりにされそうなほどに脳髄が痺れる。それでいて、どこか物足りない。けれど悦を追い求める躰は、そんな小指の先程の小さな心の隙間などお構いなしで、今にも絶頂に至ろうとしている。砂粒大の懸念や憂いなど、快楽という大きな川の流れの前ではあってないようなもの。
彼の指を演じる自分の指で、私は達した。

「お上手でしたよ」

ぽふりと頭を撫でてくれる安室さんに、私は仔犬さながらに擦り寄った。
けれど、はふはふと乱れた息を整えていた折、傍観者に徹していた安室さんの影がゆらりと不敵に揺れて。

「僕のも、見てくれるんですよね……?」

詰め寄ってきて、私を壁際に追い遣って、左手を突いて閉じ込めて――そして熱り立つ雄の象徴を、右の拳で緩く握る。
安室さんの腕の檻に投獄されて、眼前で小麦色の大きな掌に握り込まれたそれを見せつけられている。ファスナーの隙間からまろび出た男性の芯は、既に幾らかの熱を抱えており、硬化を始めていることは一眼見れば明らかだった。
あられもない安室さんの有様に、私は瞼と唇をきつく結ぶ。けれど。

「駄目ですよ、ちゃんと見ていないと」

どんな砂糖菓子よりも甘い声色が私に瞼を開けるよう迫るのだ。
色の黒い手に握られた、色の黒い芯。でも前者の健康的な肌の色に対して、後者は赤黒く濡れそぼっていて、全く異なる色彩である。皿を下げたり、パスタを茹でたり、私の手と繋いでくれたり、日常的に働いている手が、生殖か排泄にしか使われない器官を擦りあげていく。
上下に、規則的に。そんな動きは少しずつ加速し、荒々しくなっていく。
荒く変わっていくのは何もそればかりではなくて、呼吸もだった。荒く、速く、熱く、安室さんの呼吸の色相が移りゆくのを、目も耳も塞いでしまいたいと思いながら、しかし目を離すことができずに、あろうことか耳を覚ませている始末。
そんな折、鎖骨に彼の鼻先と、その息遣いが触れ、ぎょっとする。

「やっ、やぁっ。か、嗅がないで……!」
「……っ、なまえさん、なまえさん」

いつもならどんな小さな悲鳴にも嗚咽にも耳を傾けてくれる安室さんが、今日は応じてすらくれない。代わりに譫言のように私の名を繰り返し呼び、制止を弾き飛ばす。
もう憂いても遅いだろうけれど、汗ばんでいるだろうに。私の肩口に顔を埋めたまま獣みたいに鼻で息をしている彼に、遅まきながら恥じらいを覚え、身を捩らせた。その所作に伴い、髪が揺れて骨が軋むと己の香りが一層強まったような気さえする――刹那。安室さんの呼吸が何かに堰き止められたかのように詰まったのを、鼓膜で悟った。

「ん……っ、すみません、そろそろ……みたいです」
「あ……」

呼吸の再開と、精の決壊が同時に訪れる。
彼の性器の切っ先ではじけるものがあり、次いで私の膝から腿にかけてに泡立つ白波のように押し寄せるそれ。今この瞬間に放たれるまで安室さんの体内にあった白い液状の欲は人間の温度を宿していた。ぬくもりとも表せる、生々しい温度だ。
それをやけに熱いと感じた。
吐かれた精で汚れた膝がわななきはじめる。
対して頭の螺子がすっかり緩んでいるのであろう安室さんは、揺り籠の新生児を覗き込むかのような愛おしそうに膝の汚れを見下ろしているではないか。神経を疑わずにはいられない。
だって、愛おしいわけない。綺麗なものじゃないんだから。

「ふふ、汚れてしまいましたね」

白くて濁った液を色の濃い指で絡めとり、私の皮膚に塗り込んでいく。馴染ませていく。安室さんはいつもみたいにスマートに拭き取ってくれない。

「あの、安室さん、なんか変ですよ」
「変? ……あぁ、驚かせてしまいましたよね。一度じゃ足りなくて」

彼の下肢に視線を導かれた。そこでは雄が早くも熱を蘇らせており、反射的に怯んだ。
というか、私が変だと言ったのは安室さんの様子のことであって、噛み合ってすらいない。
もう嫌だ、こんな最低な見せあいっこ。


2021/03/15

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