短編

ペンギンのためのユー・エフ・オー


「わぁ、チョコいっぱいですね〜。大収穫!」

両腕に溢れさせた意味深な菓子の数々は、とっくのとうに眠りに就いているであろうなまえさんの影でこっそりと処分してしまうつもりでいたというのに。平素はそそくさと床に入ってしまう猫科に近い性分の癖、本日バレンタインデーに限って僕の帰りを待ち続けているとは計算外。
好意や恋慕が溶かされたこのチョコレートの山を見つかろうものなら、どんなどす黒い笑顔の光線が放射されるのやらと危惧していたが、予想外にも僕を出迎えたのは満面に咲き誇る笑みだった。
流石安室さんモテますね、おいしそう。とは呑気なもの。
これはアルコールで神経がふにゃふにゃにふやけているときのなまえさんだ。畳の上のローテーブルに証拠品の缶ビールが数本佇んでいる。
嫉妬を募らせた女性の煩わしさならば過去嫌というほど知らしめられて来たので、なまえさんとの仲が急降下しないように策を尽くして、このチョコレートたちに隠蔽工作を施すつもりが、事態は僕が知らぬ間にややこしい方面へと舵を切っていた。
どうせ一人じゃ無理ですし食べていいですよね? と問うなまえさんは既に僕の持ち帰った紙袋を漁っており、綺麗なラッピングの施された箱を翳す。

「僕は人からの貰い物は口にできないので処分させてもらうつもりだったんですけど」
「潔癖ですか? もったいな〜い」
「何が入っているかわかりませんから……」

綺麗好きであることは否定しないが潔癖ではない。本職の影響だ。
有名ショコラブランドの包装紙を、何の色も装飾も載っていない爪で引っ掻いているなまえさんの背後に忍び寄ると、それを取り上げる。不服そうに頬を膨らませたなまえさんは駄々をこねるかのように脚をばたばたと暴れさせた。

「やだー、食べるー」
「まったく……お酒が入ると聞き分けがなくなるんですから……」
「だって異物混入してても安室さんならどうせなんとかしてくれるもん」
「それは、まぁ」

全身全霊をかけて、ね。
“なんとか”しますよ。あなたのためなら。
呆れ顔でなまえさんの手にチョコレートを戻してやると、現金なもので、駄々っ子の喧しさは風が止んだようになりを潜める。

「それはそうと、あなたの上機嫌のわけを聞いても構いませんか?」
「安室さんにチョコをタカるの楽しみに待ってたからですよぉ〜。えへへ」
「お酒まで飲んで?」
「ばれちゃいました?」

彼女の隣に腰を下すと彼女が僕の肩にしなだれかかってくる。
このバレンタインシーズン、嫌というほど浴びせられたやけに甘ったるい街の香り。それを染み付かせた彼女のおかげで、僕の部屋もあの街の香りに汚染され始めている。

「わぁ、見てよ安室さん、トリュフですよ……!」

歓喜の声を聞いていると、不意に口元が寂しくなり、僕は彼女の飲みかけの缶ビールを喉に流し込んだ。普段は自分の取り分は死守する彼女も、なかなかお目にかかれないブランドチョコレートに夢中なようで、僕の盗み食いならぬ盗み飲みを特に咎めてこない。
かたや数千円のトリュフを頬張る彼女。こなた数百円の缶ビールの余りを啜る僕。こんなに狭い借家の一室にも格差は生まれるらしい。

「はい、あ〜ん」
「ですから僕は」
「たべないの?」

しゅん、とあからさまに凹まれると拒むに拒めない。

「今回は特別ですよ」

そんなつもりではなかったが、結果的には彼女が毒見役を買って出てくれたようなもの。安全性も保障されれていた。
あーん、と大きめに開いた唇で、ぱくん、となまえさんの指ごとトリュフを口腔に含んだ。口内と舌と指の熱でみるみるうちに蕩け始めるクーベルチュールの外壁が、僕の舌先やなまえさんの指を伝っていく。奥歯の上で砕いたガナッシュはブランド名に恥じない美味と密度。爪の先端から人差し指の根元にかけて、隅々までなぞり、舐めとった。
悪戯を終えると、眼前にあるむすっとした顔。宥めつつ、自分の唇の端から零れた甘い雫を親指の腹で拭う。

「本当のところはあなたが僕宛てに何かを用意してくれていることを期待して帰って来たんです。あては外れてしまったみたいですが」

僕もまだまだですね、なんて笑うと、顰めっ面に刻まれた皺の深度と濃度がより増した。

「前に女の子に囲まれてる時に『他人からの貰い物は食べない』『手作りの品なら尚更』って言ってたじゃないですか」
「あぁ、それで。勘違いさせてしまったわけですか。あなたが他人なわけがないのに……」

なまえさんの頭を胸に招き入れる。僕のニットの胸元に鼻先を埋めた彼女が、深呼吸をしたことが肩の働きから見て取れたので、汗の匂いも嗅がれているのだろうと思うと少しだけ照れが滲む。今日も一日3人もの人間として生きてかいた汗は、帰宅早々なまえさんにチョコレートをたかられたおかげでまだ流していない。今更ながらにやってしまったと目を細めた。

「酔おうとしたのは僕がバイト先からプレゼントの山を持ち帰ってくることを見越してですか?」
「そーですよ。めーすいりだったでしょわたし」
「そうですねぇ」

旋毛さえも愛らしいと思ってしまうのは病的やもしれない。

「あむろさぁ〜ん、私今かなり悲しんでます。嫉妬とかそういうので。私にはもう酒とゴディバとジャン=ポール・エヴァンとピエール・マルコリーニしか残ってないんです」
「結構残ってるじゃないですか」
「食べたいなぁ、あむぴの戦利品」
「本当に悲しんでます?」
「あのねー? 本当は安室さんがもらって来たやつ全部鍋に突っ込んで一緒にチョコフォンデュするプランだったんですよう」
「なるほど、酔っていますね」
「でも一個でも危険物が入ってたらアウトでしょ? だからごたまぜはやめました。あはは、わたしえらーい」

世界一最悪なチョコフォンデュの中央に並ぶ晩餐を避けられたことを天に感謝した。恋人がもらって来た見知らぬ女性からのプレゼントを全部鍋に入れて食べるとは魔女の釜も驚くんじゃないか。蠱毒術でも始める気ですかあなた。
溶かされる前に口にできたことは幸いだった、と新たなトリュフに手を伸ばす。
不意に誰かの視線に穿たれた心地がして彼女を見遣ると、僕のニットにしがみついて仔犬を想起させる瞳でこちらを見上げていた。

「あなたももう一ついかがです?」
「ください。ちゃんとあーんして」
「へぇ、あーんだけでいいんですか」

あなたは無欲ですね、なんて。おねだりを紡いだその素直な唇に、ぴと、と人差し指を触れさせた。
喉の奥でくつりと笑ってから、僕は指先に摘んでいた黒真珠のようなそれを己の口に含んだ。トリュフの行方を目で追っていたなまえさんがえぇっくれないんですかと言いたげな面持ちになったのも束の間、すぐに互いの唇を重ね合わせた。なまえさんの唇を割り開かせると、ごろん、と口腔に留めていたトリュフを転がし、唇の狭間で共有する。
分泌された側から甘く染まる唾液。瞼をきつく結んでいたなまえさんの喉をそっと指で撫で、あふれそうな二人分の唾を嚥下するように促す。酔いで抵抗感が蒸発したのか、すっかり従順になった彼女は、コクリと喉を上下させた――そんな喉の蠢きを、触れていた指で確かめる。
比喩ではなく本当に甘い味のついたキスに僕もなまえさんも夢中だった。
古くは媚薬とされていたチョコレート。その実態は昔を生きた人々の中で流行った迷信に過ぎないのだろうけれど、恋を燃え上がらせるには子供騙しのまじないでも大いに足りる。
喰らい尽くして――トリュフも唇も。

「……安室さんは、私にチョコ、くれないんですか?」

吐息を整えたなまえさんが放った開口一番はそれだ。拗ねた顔もかわいいけれど、雰囲気を壊すのも惜しいので、食い意地張ってますねなどとは言及しなかった。

「ホットショコラの材料なら用意ならしてありますよ。元々今日は遅くなる予定でしたし、一息つけるものがいいかと思いまして」
「飲みたいです」
「ではさっそく準備しましょうか」
「マシュマロ浮かべてほしいです」
「えぇ、ではそうしましょう」

大方、あの闇鍋フォンデュ用に買ったものなのだろうとは察しつつ。
口腔の酸化が進んでいく。啄むだけのキスを一度交わしてそれを濁す。まるで別れのキスのようなそれのあと、僕は夜のキッチンを甘い湯気で満たしたのだった。


2021/02/11

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