短編

愛しさがコーヒーによく溶ける朝に


安室透 携帯電話
○月×日
『僕です。すみません、依頼が立て込んでしまっていて……今日は帰れそうにありません。ハロのご飯をお願いできますか? それじゃあおやすみなさい』

公衆電話
#月△日
『僕です。お誕生日おめでとうございます。時間さえ取れれば直接お祝いしたかったな……。でもこれだけでも伝えられてよかった。ではまた』

安室透 携帯電話
\月%日
『僕です。さっき電話頂いてましたよね? 出られなくてすみません。後でこちらからかけ直します』

安室透 携帯電話
☆月*日
『僕です。今日は零時前には帰れると思います。時間が時間なので、先にお風呂に入って待っていてください。
……そういえば、以前話していた冷え性、あれからどうですか? よかったら僕の入浴剤、使ってみてください。きっと効きますよ。ではまた今夜」

安室透 携帯電話
◎月◆日
『僕です。今日うちに泊まる約束でしたよね? ついでに生姜買ってきてもらいたいんですが、お願いできます?』

安室透 携帯電話
◇月・日
『僕です。おはようございます。仕事でどうしても出なければならなくなって……きっと驚かせましたよね。あなたからすれば、朝起きたら一緒に寝ていたはずの僕が消えていたわけですから。
あぁ、そうだ、冷蔵庫のランチボックス見ました? 昼か夜にでも是非食べてください。あなたの好きなものを詰めておきましたから。それじゃあハロと仲良くね、なまえさん」

公衆電話
3週間前
『僕です。すみません、しばらく帰れなくなりました。ハロのこと、お願いします』


恋人からの留守電は決まって「僕です」から始まり、要件を淀みのない語調でつらつらと連ね、喋るだけ喋ると別れの挨拶の後すぐに切れる。
通話でも対面でも彼がほぼ一方的なくらいに喋り倒すというのは、大して変わらない。

彼の職業を考えれば、声の記録を残してしまうのもあまり望ましくはないだろうと、留守電は聞いた側からトラッシュするよう心掛けている。彼がこれまで私に宛てて残してくれた痕跡――メッセージの数に反して、私の留守電履歴が賑わっていないのは都度都度削除しているからだ。
けれど今日みたいな容易く折れてしまいそうな夜は、この留守電に吹き込まれた仮初めの彼の声を拠り所にさせて欲しい。

――今日こそ消さなきゃ……。でももうちょっとだけ声聞いてたい。

言い聞かせるように、呪文のように、繰り返す。
でももう一回、あと一回、これで最後、もう一回だけ……そんな風に彼からの最新の留守電をもう幾度も幾度も再生している。
最後の連絡は3週間前、最後に彼の肉声に触れたのは、いつだろう。平素ならば、もうすぐ会える、とか、まだ難しい、とか、そういう類のメッセージを何らかの形で寄越してくれる安室さんが、あの張り詰めた声で連絡してきた日を境に、何の音沙汰もない。

私が今まさに頬を埋めているこのベッドから彼の香りがするお陰で、寂しさが加速する。
ハロは私の家で預かってもよかったけれど、動物の寝床を軽率に移させることはストレスに繋がりかねない。安室さんとはとうに合鍵を持ち合う仲だ。彼のいない彼の部屋で、彼の忠犬と衣食住を共にしながら、彼を待ち焦がれている。
電子音に象られた恋人の声音に耳を慰めてもらうだなんて、情けないとはわかっている。
でもまた傷を作って戻ってくるのではないかと思うと気が気ではなかった。
安室さんの声は不安の霧を払う魔法だ。
やがて仔犬の寝息に私のそれが重なりあう。


朝の目覚めはやけに痛む指と手首が連れてきた。昨夜、長いこと携帯端末を握ったまま横になっていたせいだろう。自業自得とはいえすこぶる最悪だ。
端末は充電コードが差し込まれた状態で枕元に転がっていた。充電まで漕ぎつけた記憶はないけれど、昨日の私が睡魔の中で最後の力を振り絞ってくれたのだろう。
ハロに餌をやろうと倦怠感に蝕まれた上肢を起こし、白いふわふわの仔犬の愛らしい寝姿を期待してペット用ベッドに視線を投げた。が、空っぽだ。
家の中を探検してるのかな、とねむけまなこを擦ったとき。
パチパチ、と油が跳ねる音がキッチンから響いていることに気がついた。
気づくや否や私は大慌てだ。弾かれたように飛び起きて、ドタバタとはしたない足音をあげながらキッチンに駆け込む。

「あっ、安室さん……!?」

燦々と降り注ぐ爽やかな金の光を背に安室さんは、にっこりと姿を消す前と寸分違わぬあの笑顔を浮かべた。

「おはようございます、なまえさん。あなた、昨夜携帯握ったまま寝ていたでしょう?」
「もしかして、安室さんがコードさしておいてくれたんですか……?」
「えぇ、まぁ」

アンッ! と共鳴するように鳴くのは、大好きな主人の足元で尻尾を千切れるほど振り乱しているハロだ。
顔も洗っていない、寝起きですと言わんばかりの姿の私とは異なり、安室さんは今日も清潔感を帯びたしゃんとした出立ちである。だらしないことこの上ない己が恥ずかしくなってしまう。

「就寝前に携帯のディスプレイを見るのはお勧めしませんよ。ブルーライトは安眠の妨げになります。また睡眠衛生指導のガイドラインでは、ベッドを睡眠と一部の行為以外の用途に用いることは推奨されていません。ベッドに携帯を持ち込む、或いはベッドで携帯を触る、という行動自体控えること、そしてそれを習慣づけることをお勧めします」
「は、はい」

弾丸のような蘊蓄を浴びてぽかんとしてしまう私に、苦笑気味に頬を掻いた安室さんは「あっ、お腹空いてますよね」と斜め上のことを言う。

「あと少しでできるので――」

安室さんが勢いよくフライパンを振るうと、舞い上がったオムレツが華麗に宙返りを決めて、フライパンに着地する。

「――待っていてくださいね」

待てるわけがなかった。
賢い愛犬に劣るくらいに“待て”が下手糞で、幻滅されてしまいそうだがどうだっていい。
エプロンの紐を結んだその広い背中に飛びついた。

「……待ってって言ったのに、もう」

しょうがないなぁ、なんて苦々しくもどこか嬉々とした色の滲む声。安室さんはマイペースに菜箸を操る。
引き締まった腰に回した腕に力を込めれば、甘く清潔感のある彼の香水の香りと、汗の香りがより強まる。
コンロの火が落とされると油が踊る音色から勢いが失われていく。

「できましたけど……。はぁー、離れてくれそうもありませんね。ハロでももっと聞き分けいいですよ、なまえさん」

ため息混じりに頭を撫でられても退く気はない。
安室さんが盛り付けている間も、巨大な寄生中と化した私はずっと抱きついたまま離れなかった。


2021/02/02

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