短編

わたしのいない背中を寒いって言って


涙は人を救わないと、枯れてようやく理解した。
シャンパンみたいな淡いブロンド。陽の光を想起させる褐色の肌。
オフホワイトの壁に滲んだアルコール臭。人の気配があると揺れるカーテン。彼の心臓の音数を絶え間なく刻み、証明し続ける機材。ぽつぽつと滴る点滴の液体。褐色の腕に繋がる管。褐色の腕に、額に、頬に、巻かれる包帯、貼られるガーゼ、そこに滲む鮮烈な血の色。
死んだように眠っている降谷さん。私は眠るように死なないでとひたすらに祈る。

目覚めない降谷さんの病室を訪れ、手を握り、奇跡を願い、面会終了とともに立ち去ることがあっという間に日々のルーティンと化していた。喜ばしくないことだ。それだけ私の日常に、降谷さんの不在が染みつき始めたということだから。

――爆破に巻き込まれて、降谷さんが昏倒状態にある、という報せを受けた瞬間、止まらない震えに苛まれた。やっとの思いで病院の名前と部屋の番号を控えて、タクシーを呼びつけたことを覚えている。
ベッドに横たわる姿を目にした時、脳が凍りついた。涙が溢れ始めたのは医者やスタッフや彼の職場の関係者が病室をさった後だ。膝を床に折って泣いた。
涙と一緒に数日が経過した。一週間が過ぎると流す涙の蓄積量も足りなくなって、曇った毎日を生きた。

「――あなたは……」

直前まで気配などなかったのに。カーテンに落ちた人影と背後からかかる声でようやく存在を知覚できた。振り向けばスーツ姿の男性が驚いたように私を見ている。
慌てて椅子から腰を浮かせて、頭を下げた。

「あ……えっと……入院に立ち会っていらした刑事さんですよね」
「部下の風見です。……みょうじなまえさん、でしたね」

降谷さんの恋人の。
そう続いた。
私の情報が共有されていることも当然のこととして飲み込んだ。はいの一言で肯んずる。

「……大丈夫ですか?」
「容体は安定していますよ。意識はまだ戻りませんが」
「みょうじさん、あなたのことです。お疲れでしょう。失礼ながら、その様子ではあまり休んでいないのでは?」

図星を指されてどんな受け答えが望まれているのかがわからなくなってしまい、風向きを変えるためにも新しく椅子を用意した。
風見さんはすみませんと言いながら腰を下す。私も自分の使っていた椅子に改めて腰を落ち着ける。

「お見舞いに来る方、みなさんすぐに帰られてしまうんです。それぐらいお忙しいのに足を運んでくださるなんてすごいなって思います」
「降谷さんの人望は厚いですから。自分も尊敬しています」

尊敬。すごいね、降谷さん。
床に伏せる彼に、ぼうっと、照準を合わせるわけでもなく、ただ虚ろな心と眼差しで視線を注ぐ。
揺れない睫毛とあがらない瞼は蝋人形をかたちづくるパーツに過ぎないように思える。寝顔なのか、死顔なのか、初めからそういう造形だったのか、わからなくなってくる。
風見さんが病室を去って暫くが経った頃、私も帰りの荷物をまとめ始めた。

***

今日は来客がない。
――珍しいことではない。むしろ、降谷さん同様に多忙な彼の知人や同僚が病室に顔を出す日の方が稀なくらいだ。数日前の風見さん以来、私はここでスタッフ以外の人とは顔を合わせていない。
彼が偽名を使って人間関係を築いた人々は彼の身に起きていることを知る由もないだろう。降谷零としての人間関係はほぼ全て断たれていると聞く。加えて、庁内で降谷零に接触できる人間も僅かだとも。これらが尋ね人のいない理由といったところか。

降谷さんの亡くしものは、きっと多い。彼は職業柄、私にも明かしていない過去を多く抱えているようだけれど、これまで知人や友人の死に何度も立ち会ってきたのであろうことには、私も薄々勘付いていた。
日本のために降谷零としての縁を捨てたというのは間違いない。でも、それ以上に、彼にはもう残っていなかったのではないか。本来の顔で繋がっている友人というものが。

「ふるやさん……」

無意味に名を呼ぶ私は愚かしい。
ベッドシーツに寄った皺の形はずっと変わっていない。寝ている人間が寝返りひとつも打たないのだから当然である。
私の指がシーツに引っ掻き傷の皺を作って、初めて変化が起きた。
虚しくなるほど穏やかな寝顔を見ていられなくなり、ベッドに顔を埋めた。泣くわけでも眠るわけでもなく、私はただそうしているだけだった。

息の音が変わった。

そんな気がした。
私は緩慢に目線を持ち上げていく。彼の手から肩を、肩から首を、首から顎を、鼻先を、視線で辿っていき、瞼にまで至る――アリスブルーの双眸が開かれている。
刹那、胸の中で熱が弾けた。

「ふ、るや……さ……?」

凡そ呼びかけにも満たない不恰好な一言だったが、降谷さんの瞳は真っ直ぐに私を捉えた。
乾いた唇から紡がれる「なまえ……」というやはり乾いた声が私の耳朶に触れる。

「降谷さんっ!!」

立ち上がった瞬間に膝から崩れ落ちた私は、床に臀部を打ち付けてしまい、図らずも降谷さんと同じ目線の高さとなった。

「なまえ、」
「は、はい、なんですか!?」

ナースコールに伸ばしかけた手を止めて、私を呼ぶ降谷さんに全ての意識を注ぐかのような勢いで向き直る。

「結婚してくれ」

それはきっと人の時間を止めかねない一言だった。
けれど、私は硬直してしまうどころか、尽きたはずの涙を目尻一杯に溜め込んで。

「はい!」

***

「入院生活は暇すぎて叶わないよ」

不思議なことに、私からの手土産品のはずの林檎は何故かナイフごと降谷さんに奪い取られている。
くるくる、くるくる。一本の螺旋を描きながら剥かれていく皮が虚空を踊る。よく千切れないなぁ、と降谷さんの芸術的なまでのナイフ捌きの腕前には見惚れてしまう。

「私が剥くのに……」
「これくらいはやらせてくれてもいいじゃないか。退屈なんだよ」

降谷さんほど生命力に漲る人なら大事をとっての休暇をそう捉えても仕方がない。

「退院して休みが取れたら、指輪買いに行こう」

暇を持て余した指先同士を絡めて遊んでいたとき、とうとつに約束が降って沸いたので、え、と顔を上げる。

「酷いな、もう忘れたのか」
「わっ、忘れてないです!」

呆れ顔の降谷さん。くるくると林檎の皮の螺旋を生み出す手は澱みない。ついに裸にされてしまった林檎の実を、掌の上を俎板がわりにして切り分けてゆく。

「格好のつかないプロポーズで悪かったよ」

切り分けられたうちの林檎が一つ、私の唇に押し当てられたので、されるがままにそれを齧る。餌を貰う兎みたいだと思った。


2021/01/18

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