短編

荒廃世界通信


なまえからのメッセージを開封したのは帰りの車のエンジンを唸らせようとしていたときだった。

『38度の熱が出た。病院行ったけどインフルエンザじゃなかったよ』

彼女から送信された時刻は午前11時頃で、今はといえば午後26時になろうとしている。
携帯端末を助手席に叩きつけるや否や僕は車を発進させた。
なぜもっと早く気づけなかったんだと脳中に自分を叱責する声が反響する。
深夜帯の道路は廃墟と化したように生きた人々の気配が薄れているが、それでも思うほどは飛ばせない歯痒さに苛立ちは募ってゆく。

自宅付近のコンビニエンスストアに乱暴に駐車し、ゼリー飲料やアイスなど病人の喉を通りそうなものを引っ掴む。会計を終えると駆け足で車まで戻り、また誰もいない道に走り出た。

メゾンの共有の廊下に足音を響かせることも厭わずに、僕はひたすらに足を急がせた。
刺突するような勢いで鍵を鍵穴に突っ込み、靴を脱ぎ捨てる。しかしそこからは眠っているであろう彼女の耳を労って、足音を忍ばせながら進む。
床の軋みに耳を揺らしたハロが、起き上がって僕の方へ寄ってくる。“ただいま”と口の動きだけで言葉を象ってふわふわの頭を一度だけ撫でた。
大きなベッドの傍らだけが膨らんでいる箇所を見つけると、なまえが潜り込んでいるのだと安堵感が心臓に広がる。そのとき、もぞ、と布団の山が蠢いた。

「れいくん……? おかえり。帰えれたんだね」
「ただいま、なまえ。起こしちゃったな。……ごめん。メッセージ、気づいたのついさっきなんだ」
「やっぱり。お疲れ様」

ベッドの中からこちらに片手が伸ばされる。僕の前髪を撫で付けたその指には哀れなほど熱が篭っている。

「君、昼以降何も口に入れていないんじゃないか? 最悪朝から」
「う、うん。買ってくる余力もなくて……」
「だと思った。食えそうなの色々買ってきたんだ。起きれるか? どうしても無理なら冷蔵庫に入れておくけど」
「ちょっとなら」

ビニール袋を漁ってゼリー飲料とアイスを取り出してどちらがいいかを尋ねると、彼女は前者を指さす。仰せのままに、僕の可哀想なお姫様。蓋を予め開けてから手渡すという僕の手厚さに彼女ははにかんだ。
ゼリー飲料をちびちびと啜るなまえはチーズを懸命に齧る小鼠のようだった。

「これ飲んだら、私、一人で寝るね」
「一人で、って床にでも寝る気か? 正気か、君。頼むから病人の自覚を持ってくれ」
「だって……零君にうつせない」

仕事に穴を開けられない僕を案じての提案だったのだろう。

「気にするな、マスク買ってきた。これ付けて一緒に寝ればいい」
「前にマスクに予防効果はないって散々語ってたのに」
「意地悪言わないで。なまえと寝る口実に決まってるだろ? 心配なんだよ」

それに、と繋いで。

「僕は風邪を引かない」

なまえの熱を孕む瞳を見据え、大真面目に言えば。暫しの間呆気に取られたような惚けた表情を作ったのち、なまえは笑顔を見せてくれた。

「ふふ、何の根拠ないじゃない。零君らしくもない」
「でも安心しただろ?」
「うん」
「ならよかった」

そろそろなまえは休んで、と。彼女の手の中から中身の軽くなった飲料を抜き取り、なまえの肩を枕に沈めさせる。
熟れて崩れ出しそうになっている果実のような顔色があまりに辛そうで、“ごめんな”と堪らず滑り落ちそうになった言葉を噛み殺す。
照明を落とす前に一度彼女に向けて微笑むと、彼女は目が合うと同時に安心したらしく、ゆったりと目を閉じた。


夜も深まり、朝も近く、当然明日も早いというのにキッチンにあかりを灯す男を、絆されていると笑ってくれて構わない。
彼女が案じるように僕は仕事に穴を開けるわけにはいかないし、言ってはなんだが恋人の体調不良ごときで国を二の次にはできない。
仕事の連絡を優先的に確認するから、なまえからの連絡は日付が変わるまで、或いは何日も経たなければ気づくことができない。挙句、こんな時にもそばにいられない。看病の一つすらままならない。
大切ななまえと誇りのある仕事。どちらも天秤にかけることではない。

とはいえだ。
僕は欲張りである。仕事最優先に変わりはないが、なまえのことも愛している。少々の睡眠時間を犠牲にしてキッチンに立つのも全てはなまえかわいさゆえのこと。
かわいいなまえのために朝食の粥をこしらえるのだ。


2021/01/17

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