短編

真夜中が暗くてさみしいってだれが決めたの


恋人は多忙だ。秒針が巡るのをぼんやりと見つめ続けることさてどれくらいか。夜も更けてきて、そろそろ朝日の足音が響き始めるのではというそんな折、ようやく鍵が鍵穴を探る金属音が鼓膜を打った。
寝息を立てていたハロの耳が僅かに動くのを見届けて。彼の主人を迎えようと私はそろりと玄関に足を向けた。
ドアが開くと、メゾンの共有廊下の筋状の光が一瞬だけ室内に迷い込んだ。が、閉じていくドアによって光が締め出され、玄関は再び真っ暗となる。

「零さんおかえりなさ――」

ドアを開けた家主を出迎える私の言葉は、家主自身の硬い胸板に呑み込まれた。
抱き締められて、背骨がぎゅうぎゅう軋んでいる。靴を脱ぐよりも何よりも先にまず私を求めてくれた事実に、どうしようもなく胸が高鳴る。自分の鼓動の響きでうとうととしていたはずの脳が目覚めていく。

「ただいま。待たせてごめん。会いたかった」

零さんの声と吐息もまた、私の肩口に呑まれていった。
彼は起用にも後ろ手で施錠を済ませると、私の腰に腕を回して捉えたまま乱雑に靴を脱ぎ捨てる。ボスン! と落下音が鈍く鳴り渡ったので恐らく鞄を放り捨てたのだろう。
靴を揃える丁寧さと余裕を失して疲弊しながらも、私を手放さない彼に私は狼狽していた。何せ初めて見る姿だ。
ようやく足枷が消えてくれたとでも言いたげに、零さんの抱擁は本格化して、より強いものになる。
これは私も応じなければ、と羞恥心を喉の奥に押し込んで胃液で溶かして、こちらもめいっぱい抱きしめ返すと。

「痛っ、」
「す、すみません!」

傷に触れたのだ。
零さんの悲鳴と、痙攣するかのように震えた指と肩に、動転した私は咄嗟に手を離して彼の腕の中から退いた。

「なんだ、離れるのか」

と、寂しそうな声で零さんが言う。
彼は患部らしき片腕を摩ってはいるけれど、我儘の通らなかった子供みたいに口を尖らせている。
傷に触れられたあちらより触れたこちらがあわてふためくというのは滑稽だ。
けれど――そう残念がられてしまうと私は抗えない。遠慮がちに零さんの胸に身を寄せようとして、もう一歩のところで躊躇った。こういうのはハロの専売特許だろうし、それに。

「あの、零さん、今日はもう休んだ方が……」
「明日は4時に登庁だ。風呂と着替えを済ませたらすぐに行くよ」
「4時ってあと2時間もないじゃないですか。だったら尚更寝ないと」
「それは違うな」
「んっ……」

唇を唇で啄まれるとくすぐったくて微かに声が溢れる。

「だからこそこうしていたいんだよ」

君に会わないとやっていられない、なんて。耐えられないとばかりに吐き出す零さんの姿はまたしても初めて見るもので、頬が火照る。

「やめてください。私がなんでも聞いてあげたくなっちゃうの知ってるでしょ?」
「知ってるよ。……聞いてくれないのか?」
「うー……」

ぐらぐらしている私が、あともう一押しで折れることを鋭い彼なら知っているのだろう。ゆうるりと愛しい人からおねだりで迫られれば逃げ道はない。甘い袋小路に追いやられて、私は困り果てていた。
しかし退路はどこからか降って沸いた。零さんのスマートフォンが折悪くも音を立てたのだ。

「チッ」

零さんが舌打ちした。なんだか素行の悪い少年のようで、あまり見せない生活感の滲む面がかわいらしいくて、くすりと笑いをこぼしてしまう。
乱雑な手つきでスーツポケットを漁り、取り出した端末の青白く光るディスプレイを親指で叩くと通話を繋いだ。

「風見か。あぁ……その件か。こちらでも確認しておく。書類は僕のデスクの上に置いておいてくれ。このあとすぐに目を通す。……あぁ、わかった」

降谷さんが通話終了アイコンをタップしたのを見届けてから私は問いかける。

「もう出るんですか?」
「いや調査中の件の確認だった。戻るのは変わらず2時間後……風呂の時間くらいはあるよ」
「降谷さんは多忙だね」
「“降谷さん”はやめてくれ。職場にいるみたいだ」

くしゃり、と私の頭をひと撫ですると彼がリビングに向かっていくので後ろ姿とその動向を追う。彼は、犬用のベッドで寝息を立てている愛犬の健やかな顔を覗き込み、口元に弧を浮かべる。ジャケットの釦を外し、ネクタイの結び目を緩める。
次に向かうのは浴室だろうと経験則から目星をつけて――否、推理をして先回りでクローゼットを開けると着替えを用意した。適当な袋にホットアイマスクとゼリー飲料を幾つかと、着替えをもうワンセット入れたものを、着替えと合わせて渡す。

「ごめんな。ありがとう」

ハロを気遣う潜められた声を唇に乗せて、零さんが私に笑いかける。

「君も一緒にシャワー浴びるか?」
「えっ」
「冗談だよ。さっき抱きしめた時にシャンプーの匂いがした。先に寝ててくれ、僕のベッド使っていいから。こんな時間まで起きて待っていたら辛いだろう?」

ばたり、と零さんの消えていったバスルームの扉が鳴り、暫しの間ののちに水の流れ落ちる音が響き始めた。

部屋の夜陰の中からのろのろと這い出てきたハロが、ねむけまなこで帰ったはずなのに姿を消してしまった主人の影を追い求めている。一緒に待っていよっか、とハロのふわふわの小躯を抱き上げて、部屋と犬の主のベッドに腰を下ろす。
待ち人の帰らない日々を虚しく感じたことがないと断言すれば嘘になる。己の感情まで否定する気は毛頭ない。
降谷零という男は些か過程を顧みない折があるけれど、必ず最後には正しきを成すし、守るべきものを守り抜く。無論、私との小さな約束だって。
確かに急な仕事で私との用事が突然キャンセルされることは日常茶飯事だ。でもどんなに遅れて時間が経っても必ず守ってくれる。不完全な形になっても必ず。
待ち人が降谷零でなければ私は待ってなんかいられなかった。

***

水音が止み、開閉音が二度起こる。バスルームの扉とそこへ続く脱衣所の扉の二つ分だ。
濡れた髪に、肩にはバスタオルという出立ちで再度リビングに現れた降谷はいかにもな風呂上がりの姿。腕に巻かれた濡れた包帯に滲む赤黒い色だけが、目を背けたくなる非現実感を奏でていた。

「なんだ、眠っちゃったのか」

それも、掛け布団を身体の下敷きにして。おおかた降谷を待っている間に限界を迎えて、瞼を閉じたというところだろう。
眠るなまえの額に散らばる前髪を指で梳く。
2人で一緒に眠るために購入した大きめのベッドのはずが、多忙を極める降谷は両手で数えられるほどしかこれを使っていない。こんなに広い寝台の海に、毎晩1人で漂って、彼女は孤独感に苛まれているのだろうか。

「……あぁ、ハロ、おはよう。起こして悪いんだけどこのあとすぐに出ないといけないんだ」

緩慢に瞳を開いたハロに言う。明日もなまえに可愛がってもらってくれ、と惜しむように愛犬を撫でる褐色の掌。
どうして風みたいに無言で人の元を去るんですか、と降谷は幾度かなまえから苦情を受けている。見送りたいのに、と訴える彼女には悪いが、今日も降谷は眠る恋人に声をかけていくことを渋った。

――君の寝顔を崩してしまうのが可哀想なんだ。幸せそうだから。

***

朝日が登る頃には彼は私の近くにはいなかった。
跳ねた前髪を撫でつける。彼の残り香がそこにはまだある気がした。


2021/01/14

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