短編

この風はふたり乗りです


「安室さんが泣いてるとこ見たことない」

ジョッキの底と氷の表面に薄く膜を張るだけの、残りわずかとなったビールを、ジョッキ内で揺すってみる。すっかり勢いの衰えた炭酸が弱々しく泡を吐いた。

「なまえさん、少し酔ってます?」
「いつもにこにこしていて怒ることも滅多にないし、ないなぁって思いまして」

私の頭の螺子の緩みを案じる安室さんと、構わず話を押し通す私の口は噛み合っていない。
それにしても安室さんに居酒屋って、ミスマッチなことこの上ない。生まれてこのかた嫌われたことなんてなさそうな、人の良いお顔立ちに、喧しくて世俗的な場所は不相応だ。
アルコールは人の思考を猫の瞳孔のようにくるくると移ろわせていくらしい。思考の焦点が定まらないでいる私を、安室さんの言葉が先ほどの話題の地点まで引き戻してくれた。

「確かに人前で泣くことは……いい年ですし、ありませんけど。僕のような男が突然泣き始めたら、かっこ悪いと思いませんか?」
「そうですかね。この人も泣くんだって親しみを感じますし、それくらい隙のあった方が私は……」
「……――あなたは?」

にこやかだったはずの安室さんの双眸に、捕食者のような、雄のような鋭利な光が灯り、私は気圧されてしまう。い、いえ、と口を噤む。
もし口を滑らせていたら危なかった。きっとその先は、言質を取られてしまうか、蛇のようにじわじわと距離を詰められて、外堀を埋められてしまうかのどちらかだっただろう。

***

「安室さんが酔ってるとこ見たことない」
「またですか……」

安室さん特製のしじみの味噌汁から、ほわほわと立つ湯気と香り。啜れば喉の奥まで温まり、ため息もこぼれてしまうというもの。
洋食も和食も、洒落た菓子も、家庭的な味も、お茶の子さいさいとは。さらには酔いの回った人間にしじみ汁を振舞ってくれるという、親切心。まったく、できた恋人である。
アルコールに頭を砕かれて、私は先ほどから「あれしてるところ見たことない」だの、「こういう顔みたことない」だのと口を尖らせてばかりいる。そんな酔っ払いにも困ったような笑窪を刻みつつ付き合ってくれる彼は、やはりできた人だ。否、私がぐでんぐでんに浮かれすぎているだけとも言えるけれど。

「安室さんって酔ったらどうなるんですか?」
「さぁ。僕はあまり酔わない方なので」

安室さんは、困った顔の、苦笑い。でもどこか形だけというか――形式的なもののように感じることもある。
だって――。

「そろそろ休みませんか?」

あまり困らせないでください、と苦笑交じりに言っていた先ほどまでとは打って変わって、簡単に私を丸め込んでしまうのだ。私も私で、差し出された手の裏に何かが秘められているのでは? とは疑いもせず、素直に従ってしまう。

***

「安室さんってできないことあるんですか?」

朝食に一口二口と手を付けたところで、私はかねてより疑問に思っていたことを唇に乗せた。
今まさに白米に箸を伸ばしていた安室さんは、頬にクエスチョンマークを太字で書き込んだような顔をしているのであろう私を一度見た後、「昨夜からあなたはそればかりだなぁ」と眉を下げた。

「そりゃあ僕だってありますよ、人間ですから」
「ギター弾けて、テニスができて、料理上手で、綺麗好きで、かっこよくて、博識で、運転上手で、鍛えてて……ってまさに欠点なし。叩けば出てきますよね、埃みたいに。美点という美点が」
「ははは。埃って」
「バイトの面接で短所聞かれるじゃないですか、あれどうしてるんですか?」
「当たり障りのないことを答えていますよ。まぁ長所の裏返しが多いですかね。なまえさんもよくやりません?」
「えー、でも安室さんがやった日には『なんでもできすぎてできないことがないことが短所です』とか? 超嫌味」
「勘弁してくださいよ〜……。そもそも僕はそんな大層な人間ではないですから。探偵としても未熟者ですしね」

充分過ぎるほどに大層な人だ。
“未熟”という自己評価の論拠を示すように求めたい。
あぁ、けれど、強いてあげるなら。

「フリーターなことくらい?」
「……………………」

ぴしゃり、と白米をかきこむ箸が凍りついた。

「それなのに安室さんの生活水準はすごく高いから不思議です。昔何かやっていらしたんですか? 株とか仮想通貨とか」

安室さんはそれには応じず。
じぃっ、と向かい席から私を見据える。頬杖をついて首を傾げるようにし、やや傾斜のついたその垂れがちな両の目で私の二重の奥行きから睫毛の本数まで、細やかに確認でもするみたいに。そしてはたと何かを思いついたかのように表情を朗らかにした。

「一つ思い当たりましたよ、僕の欠点」
「えっ、なんですか? 聞きたいです!」
「そうですね……弱点とも言い換えられる。――要は弱みです」

弱点? 弱み?
安室透という点と、弱点という点は、どうにも線で結ぶことのできないもの同士としか思えない。星座の図のように綺麗に繋がるはずがないだろうに。
けれども、もしそんな二つの点を結ぶ“線”があるというのなら、ぜひとも心の手帳に控えておきたいものである。
私は身を乗り出さんばかりに「なんですか?」と食いついた。

「あなたです」

突然の名指しに危うく茶碗を取り落とすところだった。
授業中、教科書の影で神経を緩めていたところを、教師に狙い撃ちされたような気分だ。

「惚れた弱みというやつですよ」

甘く頬を綻ばせる恋人よ、勘弁してくれ。
小さく小さく縮こまってしまいたい。


2021/01/03
唯一上がったフリーターであることも、まぁ、国家公務員なので。
恋人のお願いはなんでも叶えてくれそうなので、惚れた弱みも嘘ではないとは思います。が、実際問題、彼は恋人と仕事を計りにかけられてしまう人間なのではとも思います……。

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