短編

ストロベリームーンの融点


――悲報は夏風のようにごくあっさりと鼓膜をすり抜けていきやがった。

「だーっ! ちくしょう!」

黒電話を叩きつける勢いで置き、一呼吸。大きく息を吸い込めば、途端に喉の痺れを意識させられ、息吹けば徐々に冷却されてきたのであろう脳味噌が、酸素を会得してまた巡りだす。
腕組みをした俺は苛立ちに任せて椅子の背もたれに躰の重みを預け、派手に音を鳴らした。奏者の喇叭よりも不細工な、甲高い軋みが俺の腰の下から漏れる。
歯軋りをして、脱力して、頭を掻きむしって、抱えて、考え込んで。執務机の前で、正しく百面相でいた俺の顎を掬い上げたのは弱々しいノックだった。

「いいぞ、入れ」

我ながら沈んだ声で応じたものだ。案の定、失礼します、と扉の隙間から顔を覗かせたなまえは俺を見るなり目を見開いたので、俺は余程酷い顔色をしていたのだろう。

「お茶をお持ちしたのですが、まだお仕事中でした?」
「いや、助かるよ。悪いな。ちょうどひと段落ついたところだったんだ……ははは……」
「さっきのお電話、上司の方ですか?」
「そうだが。よくわかったな」

コトリ、コトリ、とポットとカップを執務机の脇に並べていくなまえは、ごめんなさい、聞こえました、と苦笑いした。俺が言わんとしていることも大方察しがついているのだろうが、それでも言わねばなるまい、と。俺は口を切った。

「その、だな、良いニュースと悪いニュースがあるんだ。なまえはどっちから聞きたい?」
「イギリスさんのお好きな方からでいいですよ」
「じゃあ悪いニュースからなんだが……休暇が減った。というよりは白紙だ。お前との約束も先送りになっちまう。なんて謝ったらいいかもわからねぇが、ごめん、な。埋め合わせはいつかちゃんとするから」
「私は気にしないですよ。また考えましょう? それに以前もありましたし」
「だから尚更悪いと思ってる。ったく、なんでいつもこうなんだか……」
「で、でも良いニュースもあったんですよね?」
「嗚呼、それはだな」
「はい」
「俺の拘束時間が増える!!」
「悪いニュースと悪いニュースですよ!?」
「それでも上司的には万々歳さ」

国だなんだとスケールの大きな言葉で自らを――或いは友人を――称したり、称されたりはするものの、いつの世も俺の手綱は人の手によって握られているので、気兼ねなく恋しい相手をデートに誘うこともままならない。
毎度ながら、どうしてこう、俺が何かを目論む都度、心に木枯らしが吹く結果に終わるのだろうか。
気が鬱してしかたがない――なにせ、やることなすこと何もかも、磁石の対極同士がはじけるみたいにうまくいかないのだ。

「イギリスさんにとっての悪いニュースと、上司にとっての良いニュースですか……? あんまりですよ……」

そうだ。まったくもってあんまりだ。
これは遊撃にも等しい。おかげで俺の予定と頭は粉々に砕かれた。
崩れて嬉しいものなんて好きな女の心の壁くらいなもので。土砂にしろ予定にしろ何にしろ、大抵のことは“崩される”のなんてまっぴらごめんだ。もちろん、砕かれるのも。
なまえと星の数ほども愛を紡ぎあうためには、俺達にはとかく時間が足りない事実は明々白々。一緒に羽を休めようという休暇の計画は、あたため続けてきて今にも孵化しようかという大切なたまごだった――だというのに、遊撃、粉砕。白紙。

「ごめんな、なまえ。楽しみにしてたんだろ?」
「イギリスさん……」

頼りなく項垂れる俺の傍らでは、淹れたての紅茶が静かに湯気を立てていた。ここは一刻も早く、一つでも多くの仕事をこなして、休暇を勝ち取るために、一歩でも多く前に進むべきなのだろうが。生憎万年筆を握る気力は屑籠の中だ。
ぴとり、と不意になまえが俺の眉間に触れてきた。行き来して撫でる指。指先だけの、幽かな接触で伝導する温度と、俺のまばたきを呼ぶ。

「……ん! な、なんだよ」
「眉毛、」
「あぁ? 眉毛は今関係ねーだろ」
「えっ!? よ、寄ってたので……」
「は?」
「眉間にすごい皺……すみません……」
「そ、そうか」

あーやべえと乾いた笑みで誤魔化す。こいつはいびってくるようなやつではないのに、ついコミュニケーション感覚で臨戦態勢を取ってしまった。――というか、銃口を向けられる瞬間とそっくりで焦った、のだ。
それにしたって紳士が一般淑女に噛みつくとは頂けない。雷雲でもあるまいに、ずっとぴりぴりとしているのも褒められたものではない。俺はしかめっ面を解いて。

「――。一旦はティーブレイクだな」
「それがいいです」


2020/09/25

- ナノ -