短編

オパール調の歌ばかり知ってる


鼻の奥を切なくさせる空気の冷たさが、剥きだしの肩を今しばらくシーツの中に沈めておきたいと思わせるけれど。閉ざした目蓋を温かに照らす朝の光はアンティークの時計よりも早く正確に、朝食の準備に取り掛かる頃だと告げている。
ベッドサイドにちょこりとおとなしく座っているアーサーさんのテディベアにふわふわと触れて、本当にいつも一緒なんだ、と生活の香りが伺えた。昨夜は――、私がテディの主人を奪ってしまったけれど。そこまで思考が至ると私は頭を抱えて、沸沸と湧く消えてしまいたい衝動に身を焦がした。
そんな折。ガチャ、とアーサーさんのドアノブの回す音が控えめにベッドルームの朝を揺らした。

「お。もう起きてたのか。それとも起こしちまったか?」
「い、いえ……。おはようございます」
「おはよう、なまえ」

私が目覚める頃にはすっかり綺麗なシャツとベストという乱れのない装いに身を包み、携えたトレーにはティーセット一式を載せたアーサーさんを紳士と呼ばずしてなんと呼ぶ。
私だけが未だ浮かれた夜から出られていないみたいで、素肌と外界をシーツで隔てつつ、白い布地の下で縮こまった。

「気分はどうだ?」
「大丈夫です」

気怠くて、夢見心地だ。
そうか、と彼はテディベアの隣にトレーをおいて、ご自身は私の隣に腰を下した。
二人分のティーカップから舞い上がる湯気が柑橘系の香りを運ぶ。トレーの上には、紅茶ばかりか幾つかの菓子まで並べられていて、たまらず感激の声が漏れる。

「わぁ、豪華ですね。ありがとうございます」
「ま、まぁ、ちょうど俺もモーニング・ティーの気分だったからな。ちょうどよかった」
「あ、このクッキー好きって言ったの覚えててくださったんですね!」
「……。ちょうどあったんだよ、ちょうど」

“ちょうど”って何回使うつもりだろう。お前のためじゃないからなと見え透いたの嘘で照れ隠しする彼はどこか少年のようでかわいらしい。
紅茶を一口貰って、あっ、アールグレイだ、なんて果実の甘酸っぱい香りに染まった吐息と一緒に頬を綻ばせると、アーサーさんはすっかり上機嫌で、満悦至極とばかりに笑みを湛える。意地悪めいたことを言ってもその実世話焼きな性を隠せていないアーサーさんの、言と動のちぐはぐさが、微笑ましい乖離性が、私は好きだった。
彼が子猫でも愛おしむように私の髪を掬いとるので、鏡も見ていないのに寝癖の酷さを察する羽目になり、またしても消え入りたいと思う。ただでさえあられもない姿を晒しているのだ。やはりもっと早く起きるべきだった、などと。

「あの、お茶の準備でしたら私がしましたよ?」

手持ち無沙汰にカップを両掌で包み込むと、指先まで熱が伝わる。

「いや、これは俺がやらないと意味がないというか、だな……」

稀に見る歯切れの悪さで――悪事を働いたわけでもないだろうに――叱られた子供の弁明さながらにアーサーさんは言葉を並べるものだから、益々わからない。

「だーかーらー、昨夜は加減できなくて無理させちまっただろ? せめて労わってやりたかったんだよ、紳士の矜恃的なあれで!」
「……! あ、ありがとうございます」
「わかればいいんだ。そう、だからお前は、そうやっておとなしく俺の紅茶を飲んでくれていれば、それでいい」

しかしまぁ、と繋いで。

「細かいことを言えばアーリー・モーニング・ティーは夫から妻に対しての習慣だが、そこはほら、なんというか、気持ちというか」

妻。とてもではないけれど咀嚼しきれない大きな衝撃で、脳がぼうっとした。

「お前……照れるなよ。なんかこっちまで恥ずかしくなってくるだろ」

血が熱くなり、色の赤く騒がしくなった私の頬に、アーサーさんが指を寄せる。反射的に肩が跳ね上がると手にしていたカップの中で紅茶が波打ってしまう。「おっと! 危ねぇ!」と咄嗟にとりあげてくれたアーサーさんのお陰で、ひっくり返してしまうこともなく、ことなきを得たけれど。
ティーカップがトレーにおかれると、カチャリ、とその二つが擦れ合う音色が生じて、一見落着したらしいことを察する。

「ったく……。気をつけろよ。火傷とかしてねぇか?」
「すみません、大丈夫です」
「ならいいが――」

寝坊助な上、触れられた程度で驚いているようでは、ともすれば呆れられるのではないだろうか。
戦々恐々、睫毛を擡げさせて案じる眼差しを彼に馳せれば。見つめ合う間もなく唇が重ね合わせられていた。
もう零す心配もないだろ、とアーサーさんの瞳に言いくるめられた気がした。


2020/09/17

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