短編

わたしの名前は悲しくなくても使っていい呪文


※サマー・キャンプネタ

「蘭陵王、怖いから一緒に寝ようよ」――払いのけることは憚られるが、そのままに嚥下するにも迷う主の言葉が、光の粒子に身を変じようとしていた私をその場に縫いとめた。


ベッドと枕のスペースを半分ほど分け与えて頂き、同じタオルケットにくるまると、こちらに背を向けて横になった主の背を包み込むように抱きしめる。というのも、背中が怖いからそうして欲しいという主からの御達しで、彼女曰く、怖いから枕を抱いて寝る、そうすると背中が留守になる、何かがいるのではと思うと寝返りが打てない、かちこちになって眠れない、とのことで。
壁の木目に悍ましさを空想する、というのは生きた人間にはよくあることだろう。悪意を持ち合わせていないとはいえ、亡霊さながらの存在である私は、壁に走る天然の縞模様に対してもさほど恐怖心は覚えていない。私は実体験の伴わない“納得”という形で、主の仰る「怖い」というお気持ちを飲み下していた。

「これで多少は落ち着かれましたか? マスター」
「うん、ありがとう。普段からマイルームにいてもらってるから、君だと安心」
「思えばそうでしたね。今回の任務でも側仕えの役目にあずかり、光栄です」
「……ねぇ、もうちょっとくっついてほしい。ぎゅってして」
「承知致しました」

抱擁を強めながら思案する。私の声色は上擦ってはいなかったろうか。素顔を人目から遠ざけながら生きてきた身とはいえど、ポーカーフェイスにはまるで長けていない。困惑が躰の外側にまで滲んでいないかが気がかりだ。
甘えるように私を頼った主の望みが、色めいたものではないことは承知している。だが同衾に他ならない現状には脳が戸惑いの叫びをあげていた。

「手も、握ってほしいな」
「えぇ……。もちろんです」

暫しタオルケットの海の中を探ると、主の片手と出会うことができた。彼女の手の甲を自身の掌で覆えば、ぴく、と震えを起こす指。主の各指の股がまるで私を受け入れるかのように徐々に開かれていくので、私はそのまま己の指を差し込んで、しかと握る。

「知ってる? 幽霊って厭らしいことしてると逃げていくらしいよ」
「マスター、さすがにそれは……私がホラージャンルに無知ということを差し引いても、失礼ながら疑わしいかと」
「うん、正解。都市伝説。それどころか後付けとか最近出た噂とか、そんなレベル」

あちらを向いている、私に背を預けている主の真意は雲の上で、到底掴めない。密着度とは裏腹に、視認できるのは夜陰に浮かぶ肩口の白さと、結ばれていない髪の艶やかな流れだけだ。乾かし損ねた雫が毛先にまだ少し居残る髪と、キャミソールのみを纏う剥き出しの肩に思わずくらんでしまった己の、浅ましさを戒める。
声色と後頭部から伺える事柄などたかが知れており、私は肩を竦める以外なく。途方に暮れていた、そんな折。
もぞもぞと主の肩が蠢き、腕の中の上肢も捩られる。気づけば、ぱちり、と闇を挟んで視線同士がかち合っていた――寝返りを打つようにして、彼女はくるりと華麗にこちらを向いて、そして、はにかむように微笑んで見せた。
二の腕ほどまで滑り落ち、たゆんだキャミソールの紐と、私の胸元にまで寄せられた鎖骨が否応なく心臓に早鐘を打たせる。胸中に潜んだ邪な思惑から彼女を遠ざけるべく、タオルケットを彼女の肩が隠れる高さまでかけ直す。そして私は改めて平静を繕った。

「マスター……。やはり私がいては休まらないのではないでしょうか」
「違うよ」

片頬を枕に預けて、上肢を私の腕に委ねて、夜闇を乱すように唇を動かす主。

「怖かったのは本当だけど、半分くらいは口実。こんなホラー特異点だけど、蘭陵王に同行してもらえるのが嬉しくて」
「あっ、あなたという方は……っ!」

私ははじかれたようにがばりと上肢を持ち上げた。霊基が熱を帯びてゆくのを自覚する。恐らく頬に熱を集めているのであろう私を、主は変わらず枕に頬を埋めたまま、きょとんと見つめていた。
嘆息をひとつ挟み、閑話休題だ。

「……、それで駆け引きのような真似を?」
「ご、ごめん。怒った?」
「怒ってなどいません。ただ、こんなにもささやかで愛らしいお申し出なのです、初めから素直に仰ってくださればよろしかったものを……とは」
「拗ねてます……?」
「すっ、拗ね……っ。そう、ですね。私はあなたの望みには出来る限りお応えしたいのです。無碍に断るはずがないではありませんか」

信じて――いただけませんでしたか?
我ながら。
拗ねたようで、縋るような、情けない響きを伴った問いかけだった。
拗ねていると内情を看破されているのなら何かを恐ろしがることはないのやもしれない。そう考えた時がまさしく頭の吹っ切れる瞬間だった。
先の問いにかぶりを振ってくださる主の頭部の横に腕をつく。この身で覆いかぶさってしまえば檻のように彼女を腕に閉じ込めることができた。先ほど抱擁していたときとは随分と意味合いも変わるが。
起き上がったばかりではあったが、こうしてまたすぐにシーツに深く沈み込む運びと相成る。
泳ぐ瞳は間近にあった。

「本当はこういったことを望んでいらしたのでしょう?」

素直なこの方はとても愛らしい。うん……、と夜に溶けて消えてしまいそうなほどの小さな返事を聞き届けると、その唇を啄む。
コテージを包む夜陰に僅かながら鬱陶しさを覚えてしまった。この暗がりは、主が俯きがちになるだけで、表情の多くを私の眼前から盗み出してしまうからだ。
夏の霊衣で素顔を晒すことを主が大層喜ばれたときは不思議に感じたものだが、いざ自分が隠される側となってみるとそのもどかしさがよく理解できる。
私は表情よりも温度と全てで彼女を感じとりたくなり、またぴたりと唇を合わせる。


2020/08/26

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