短編

ださいスーツと水っぽい論理


※ラスベガスネタ

不可抗力だ、とホテル・ギルダレイの美しい天井に辯解をぶつける。果たして聞き手のいない辯解にどれほどの意義があるのだろうか。
あれよあれよと組み敷かれた寝台はふかふか。紅色の花弁はひらひら。
夏の熱気はそれほどまでに心地良いのか、マーリンはいつにも増して上機嫌である。それこそ鼻歌の一つでも歌いだしそうなくらいに。
ご機嫌なキスに唇を奪われそうになって、私は彼の肩を軽く押し退ける。

「駄目。私が変な気起こしても困るでしょ」

ご機嫌なマーリンとは正反対のやや不機嫌な声色で制してみるものの、空振りに終わった。制止などいともたやすく振り切って、夢魔は唇を重ねてくる。

「起こしてくれるというなら安いものさ」

ぷはぁり、と。一瞬だけ塞き止められた呼吸が再び始まる。
いつもと変わらない、余裕げでからっぽな微笑みを湛えているマーリンに、私は腹立たしさと脱力感を覚えた。
シュルシュルという衣擦れの音を立てながら、腰元で結んでいたアロハシャツの裾がほどかれていく。マーリンにとって、従者という立場は慣れたものであるはずなのだけれど――そもそもが本人の弁だった――無許可で結び目をほどくだけでは飽き足らず、シャツのボタンも外し始めているのだから信用ならない。

「マーリン、私シャワー浴びてないよ」
「気にしない気にしない〜」

シャツの前を開けられると、下着代わりに重ねて着ていたブリリアント・サマーのチューブトップが露わにされる。

「マーリンは気にしないかもしれないけど。っ、……!?」

首筋を甘噛みされて、仰向けにされた兎の如く身が硬直した。牙めいた歯が肌に沈んでいく淡い痛みは、どこか甘美さを秘めており、ぞくぞくと震えが沸き起こる。皺無くメイキングされていたシーツを引っ掻いてしまうのは、ただひたすらに忍びなかったけれど、指の先端はどうしようもなく力んでしまう。音を爪弾けなくなった喉からは声にならない悲鳴が零れ落ちた。
しょっぱくないの――唇を割り開きかけたところで、私は口籠る。湖畔で踏みとどまり、足を濡らさない道を選んだ。味覚が存在しないマーリンは、どんなに噛み付いても食い散らかしても、他人の汗の味を知覚できるはずがなかった。
口を閉ざすことを決めた私とは裏腹に、やはり浮ついた気分であるらしいマーリンは、私の首から下がるネックレスの紐を指で絡めとり、弄ぶ。

「これ、苦しくないかい」
「……え?」

これ、と指し示されたのはネックレスからぶら下がる翡翠色の飾りだ。

「水着のストラップと絡まっても厄介だ。無くしてしまおう」

ぱちん、とマーリンが指を鳴らすと、ネックレスが消滅した。
首元の解放感を確かめるべく半信半疑ながら触れてみると、なんということ、本当にネックレスが跡形もなく消えてなくなっているではないか。困惑に脳を浸していると、枕の脇に今の今まで身に着けていた件のネックレスが現れた。種も仕掛けも存在しない、無論手品などでもない、ほんものの魔術に、すごい、と気づけば私は口先から漏らしていた。

「私としてはちょっとした魔術のつもりだったのだけれど、ね。君の驚いた反応は実にいい、実に新鮮だ。それとも攻撃の魔術に目が肥えている分、こういった生活感のある魔術の方が物珍しいのかな」

愉快さゆえにか、痛快さゆえにか。多弁に物を語りながら、マーリンは自身の纏っていた夏服に術をかけた。光の粒子と紅の花が儚げに散るとともに、刹那にして彼の上肢が露わになる。早着替え、と言ってしまえばそれまでやもしれないけれど。何の動作も挟まずに肌を晒された狼狽に目が廻りそうだ。
私の腹部に舞い降りてきた花びらを、マーリンの手が払いのける。そしてそのままわたしのうえを滑った手は白のホットパンツにかかり、腿の半ばまで脱がされた。中途半端な位置まで下ろされたホットパンツは邪魔臭く絡みついて、足枷みたいだ。
とはいえ、先ほどネックレスにかけた魔術があるのだから、こんなにも手間を取らずとも一瞬で剥いてしまうことすら可能だっただろうに。どんな思惑なのだろうか。

「なんで私の魔術礼装は手で脱がすの?」
「人はプレゼントの包装紙を開けるという過程でも胸を高鳴らせるだろう? こうして少しずつ脱がされて、恥じらっている君の、感情の動き……とでもいうのかな。ともかく、それを眺めていたくてね」
「私がマーリンの霊衣脱がせてあげていたら、それ2倍くらいになったんじゃない?」
「はっ、私としたことが!」

――国籍と時代の混在するカルデアでは異文化交流は日常のことだ。価値観や倫理観の噛み合わない相手にも苦笑いを浮かべつつ、根気よく現代の道徳というものを最低限説いて、風紀だけは辛うじて死守する。
ことマーリンに関しては、我々人類とは感覚器官が少々違う。
味覚がない、とは当人の弁。“味”の大部分が嗅覚に依存する以上、彼には満足な嗅覚も備わっていないのではないかと私は推測している。
おかげで彼とは五感を前提にコミュニケイトを図ろうとすると必ずといっていいほどに躓いてしまう。
どんなに生きた時代の異なる英霊達でも、人の形をしている以上は人の機能を備えているのに、不親切で冷たい話だ。
人が獣に還りがちな、行為という局面において、マーリンとのこの感覚的なずれはより顕著なものに――かつ致命的なものに化けて、表面化する。

深い――頭に浮かぶ戸惑いも舌で掻き回すような、深い口づけを受け入れる。
自分の汗の匂いと真紅の花の香りが混じり合い、鼻腔に窮屈さを覚える。
私たちが抱き合ったときにだけ生じるこの香りを、彼と共有することは恐らくできないけれど。第三者に目撃もされず、当事者のマーリンも認知できない、唯一私だけが知覚できる、香りだ。ひとりよがりにでも、この香りという誰も知らない世界を愛でてゆきたい。大切にしたい。
濃く香る花に胸を切なく締め付けられる。

「ふふ、何かぐっと来るものでもあったのかい。眉をしかめたくなるほどの熱さと、息苦しさと、期待感が押し寄せてくる。今の君はとても扇情的だね」

自らが咲かせた花の香りを楽しめないマーリンに、いっときは同情心を抱きもした。けれども彼も彼で、私の見も触れもできやしない、“私の感情”なんて代物を食べているわけで。
お互いに生きる世界が、僅かに不一致を起こしているというだけなのだ。彼の五感が不揃いであることも、決して悲観的な意での欠如ではなくて、私たちと異なる存在だというただそれだけのこと。
香りや味を知らないことなんて当人もさして気に留めてはいない。代わりに私の、官能的な熱を帯びていく心の、その移ろいに舌舐めずりをしている。
マーリンと過ごす時間に人間の価値観を持ち込んだ自分が酷く愚かしく思えた。


2020/08/15

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