短編

きみのかゆいとこぼくが掻いてあげたいよ


※ラスベガスネタ、英霊祭装ネタ

昼は秘書、夜はバーテンダー。超・最高級ステーキまで仕入れて。一体彼の草鞋は何足か。

ホテル・ギルダレイはこの真夏の絢爛都市で唯一の、プール保有するホテルだ。さらには夜間は優雅な時間を楽しみたい大人のサーヴァントに向けて、ナイトプールとしての営業も行っている――王様も抜け目がないことである。王様の秘書、兼、バーテンダーの蘭陵王から「よろしければ行かれてみては?」と勧められた私は、その瞬間にとてもよいことをひらめき、脊髄反射の勢いで彼を誘ったのだった。
華やかにライトアップされたプールサイドは心を涼やかにしてくれる。星明かりよりもまばゆく、凶悪な太陽光よりもエレガントに照らし出されるこの夜の水辺は、花火をそのまま湖に封じ込めたかのような幻想的な輝きを湛えていた。
耳朶に触れるのは楽しげな声と、たまらず躰をゆすりたくなるような音楽。

「ナイトプール……夜ではありますが、本当に多くの方が遊びに訪れ、賑わっているようです。……いえ、もちろん知識としては心得ていたのですが。サーヴァント としても、ホテル側の者としても。自分の足で訪れてみるとまた空気も違うものですね」

煌めく夜を見渡す蘭陵王の、その双眸の移ろいを私は密かに追いかけた。
蘭陵王の瞳、表情。日中はほぼ晒されることのないそれらが、夜の帳がおりてから始まるこのおとなたちの遊び場では隠されていない。仮面の障害が取り払われた今夜、蘭陵王の表情の変化のひとつひとつに至るまでを存分に独り占めできることが、このまま月まで飛んで行きたいほどに嬉しい。しかし反面、私の胸からは困惑もぽろぽろと生れ落ちていた。
なにしろ今夜の蘭陵王は、平素の印象とはがらりと異なるラフスタイルだ。銀色のえりあしをちょこんと小さな尻尾のように結わえて。彼らしい落ち着いた色調で統一されたラッシュガードとスイムウェア、夜風に靡かせるのは肩に羽織ったロングタオル。
夏めいた彼を前に、このどぎまぎはどうしたものだろう。

「今夜はただの客人として楽しむのも許されるでしょう。お誘い頂きありがとうございます、マスター」

甘やかにくちびるで弧を描いてみせた蘭陵王は恐らく普段と同じ態度のつもりなのだろうけれど。こちらからすれば一対一の特別な時間でもない限り、仮面無しには合わせることもままならない顔だ。嗚呼、そうか。今日って特別なのか。

「こっちこそ、ありがとう。付き合ってくれて」
「主のお望みとあらばどこへでもお伴いたしますとも」

ナイトプールの客人の優雅なことといったらない。気まぐれにカクテルグラスに口をつけたり、貝殻を模した形状の浮き輪のうえで笑い合ったり。一夏の一夜を残すべく筆をとる作家。歌を詠む歌人。時折手を振ってくれるサーヴァントたちに、私ははにかみつつも手を振り返す。
ふ、と。あれ、と思う。蘭陵王が立ち止まったのだ。どうかしたのだろうか、と彼を覗き込むとすぐに気づいてくれたようで。

「失敬、ペットの遊泳は不可と書かれていたものですから。少々残念に思ったのです」
「あー……」

馬。
難しいだろうな。


「あら、お似合いね、マスター」向日葵色の裾を翻す踊り子から、微笑ましそうにかけられた声にひっくり返りそうになった。
「ふーん、顔のいいセイバーと一緒なのね」こつん、と背後ではじかれた硝子玉のように鳴るヒールの音。振り向けば、ペンギンフードの奥から関心の薄そうな眼差しでこちらを穿つプリマドンナ。こんばんは、なんて彼女には上品に振る舞ってみる。すると帰り際だったらしいプリマドンナは「これはあなたにあげる。これじゃあまるで人魚だもの」と透明な貝殻の浮き輪を譲ってくれた。親切だ。

爪先を濡らすだけ、水を浅く掬うだけの水遊び。プール内とはいえ、大きな浮き輪で陸から切り離されたままくつろいでいると、気分は筏に乗った漂流者だ。幽かな浮遊感や人造の波の揺らめきも相まって、このまま頓痴気で特異な真夏の現実からも逃げ果せることさえできそうな――。いや、それは幾ら何でも夢見がちかもしれない。

「あ、そういえば一応持ってきたんだけど。サングラス、いる?」
「それは陽射しから目を保護するためのものでは? 夜に身に着けるにはTPO的にも適していないのでは……。――い、いえっ、マスターのご厚意、この蘭陵王ありがたく賜ります」

そんなつもりはなかったとはいえ、半ばパワーハラスメントで受け取らせてしまった。
グラスのモダンを耳裏に差し込むと。

「いかがでしょうか」

蘭陵王は顔を傾け、グラスのフレームの隙間から瞳を覗かせつつ、私に問う。フレームの隙間からでもこちらの心を射止める双眸の煌めきと、うっとりと脳が溶かされる長い睫毛。サングラスすら容貌を引き立てる小道具として取り込むその美貌に、脳裏で星が散った気がした。

「……サングラスごときじゃ美貌封印できないね……。ごめん、やめよう。普通にしていよう。馴染もう」

私はテンプル部分に指をかけると、そろそろと彼の耳からグラスを奪った。

「そう私のことなど気にかけてくださらずとも。存外、気は楽なものです。談話と楽しい空気を味わう場……だからでしょうか。それにこの暗さです。人の視線も気になりません」

蘭陵王の言葉を聞き届けて、私は少なからず安堵していた。
麗しい人が、どこからも誰からも注目を集めずに過ごせる、穏やかな時間――ささやかでありながら想像よりもずっと難しい願い事だが、大人が戯れるための水の園でならば、それも叶えられると閃いたのだ。
否、そうでなくとも、こんな頭のおかしな特異点にやってきてまで多忙に多忙を重ねる蘭陵王にこそ、ただ木の葉のように漂うだけのモラトリアムじみた時間を贈りたかった。例え、多少押し付けがましい形になったとしても。
心を晴らすように水を蹴り上げると、宙に舞い踊る水飛沫がカラフルな照明を集めて、一等強く輝いた。輝く雫の群れが重力に倣って弧を描くその一刹那は、流星雨と見紛うほどに輝いていて、私は少し手を伸ばしたくなった。

「御身体が冷えませんか、マスター」

相乗りの浮き輪の上で奏でられた優しい声に、鼓膜が震えた。直後、ふわっ、と。蘭陵王は自身の羽織っていたタオルを私の肩にかけてくれる。
すっかりタオルにくるまれてしまった肩も、頬も、忽ちに熱を帯びていく。今夜の彼はせっかく素顔のままでいてくれているというのに、肝心の私がいま顔を隠してしまいたい衝動に駆られているのだから、愚かだ。それほどに熱い。それにきっと赤い。
こんな不意のことも彼なりの忠義には違いないのだ。ただただこちらが、自分はひょっとしてこの人にとっての大きな存在になれているのではないか、という身勝手な期待にドキドキと激しく鼓動してしまうというだけで。
あうあうとかけられたタオルに埋まって貝塚と化していると、「マスター?」と蘭陵王は様子を伺ってくれるので、なんでもないですともごもご答えた。

「蘭陵王の息抜きになればって思ったのに、結局こっちが世話焼かれちゃってるね」
「お気遣い痛み入ります。ですがこの通り、霊基に疲労感はないので、どうかご心配なさらぬよう」
「だよね。でも精神的に疲れたりすることもあるんじゃないかと思ったら、何かしてあげたくて。ナイトプールって泳がなくていいし、夜だから人の顔も見えないし。そもそもみんな寛ぎに来てるわけだし。気疲れも少なそうでいい場所かな、って」

喜んでもらえるんじゃないかな、って――そう思ったのだ。

「そう、でしたか。あなたはお優しい」

どうかな。君の方が。

「これまでの数々のご恩、そして今宵あなたにかけていただいた優しさが思い出としてこの胸に刻まれている限り、私はどんな戦場であろうと恐れずに駆け抜けて行けるでしょう」
「やだなぁ……。次の夏も一緒に過ごしてくれるだけで充分だよ」
「えぇ、お約束致します」


2020/08/11

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