短編

あなたの鼓動にぞっとする


鶏肉を調理するときと同じ音が。刻む音が。剥ぐ音が。涙を孕む悲鳴が。次第に弱々しくなっていく息の音が。刃の切っ先を差し込んだときに滲む鮮血と同じ色が、香りが。焼き付いている。私の、鼓膜に。瞼の裏に。前線基地から逃げ出した今尚も。

***

「もう少しの辛抱ですよ。もう少しで、君の友達のウルチエルノともまた一緒です。お揃いですよ」

祝福をうみだす血塗られた手術台。痛い痛い、痛い痛い、と繰り返す子供に卿はメスを滑らせていくけれど、それの所作はまるで子供の頭でも撫でてやるかのような、ありふれた父性を纏っているのだ。

「う、るち、えるの……? これおわったら、またあそべる?」
「えぇ、君たち二人はもう二度と、離れることはありません」

ウルチエルノとは、この子供の前にこしらえたカートリッジの名前だろうか。
おかしな話だ。狂った話だ。手術台の子供はそれまでは鈍色のメスが刺し込まれては抜かれる度、大粒の涙をあふれさせ続けていたというのに。友人のウルチエルノの名前が浮上した途端、噛み締められていた唇に安堵の笑みが灯ったのである。

「新しい挑戦には不安が付き纏うもの。恐れがあって当然です。ですが大丈夫です。あの日、セレニの地から深淵への一歩を踏み出した君ならば、必ず乗り越えられます。大丈夫。ウルチエルノも待っていますよ」

卿の低く落ち着いた声で束ねられた美しい言葉たちは、旅立つ者へ手向けられる花束のように美しかった。
臓物のひっくり返った獣のように呻きながら――おそらく私と黎明卿の判別すらつかないのだろう――くたばりかけの手をこちらに伸ばしてくる子供。その子供の腹に収まっていた内容物を片付けていた私は、伸ばされるその手にぎょっと瞳孔を開き、硬直してしまった。

「なまえ、握ってあげてください。この子は今励ましを必要としています」

言われるがままだった。
私はその子供の手を握った。
次か、その次には切り落とされる手にめいっぱいのぬくもりをわけてあげたかった。

***

瓦解した。

***

肩で風と水飛沫を切りながら走る。
水流の喧騒が轟々と足元を震わせるので、地面の揺れなのか膝の笑い声なのかがわからない。
5層は海の影響でただでさえ体感温度が低いのに、畳み掛けるように恐怖と焦燥が喉を凍てつかせて、総身の皮膚を粟立てる。
でも。どんなに肺がはち切れそうだって、ねじれてしまいそうであったって、私が足を止めることはなかった。ただ、ボンドルドの手から逃れたい一心で。
刹那、嘔吐間を誘う刺激臭が鼻を劈いた――。

「……!?」

ズォオン!!
頭蓋骨に響く轟音。砂氷を突き破り、姿を晒したのは巨大な虫の原生生物だ。
4……6、7、だろう。7つの尾を操る、名も知らぬ猛虫。

「あっ……、あぁっ!!」

しなる肉の鞭は逃げ惑う愚者の私のことなど瞬く間に捕縛する。無遠慮に髪やら腕やらを掴まれて、宙ぶらりんの状態にされるけれど、浮遊感に何かを思う隙も与えられなかった。
躰の端っこの方からちょっとずつ――違和に蝕まれていくのだ。違和感、と表現していいのかもわからないものに、侵食されていく。まるで全部の感覚器官に虚無感を注ぎ込まれているみたいな。これは。
5層の上昇負荷、だ。
絶望した。
白濁する世界の中で、ほころぶように自我が崩れていく。そのさなかに、最後に、ひとつだけ、産み落とすことができたのが、この絶望だけ。それ、だけ。だけ、ってなに。他にどんな感情があるのだろう。他って何。「ぜつぼう」ってどういう綴りだったっけ。それってなんだっけ。思い出したいことがある時って、どうやって思い出せばいいんだっけ。


――――閃光。
それは、紡いだ糸をほどいてしまうかのように命を屠る。
私を喰らわんとしていた命が、それによって焼かれる。
嗚呼、“光”だ、と。あの恐ろしい夜明けの人が『枢機へ還す光』と呼んだ光なのだ、と。未覚醒の脳でさえ稲妻の速度で飲み下した。
私を捕えていた原生生物の尻尾は大きく抉りとられて、解放された私は真っ逆さまに落ちていくらしかった。らしかった、というのも、かろうじて蠢きや薄らぼんやりとした人影を視認しているだけで、ほとんどの感覚器官は未だ息を吹き返していないのだ。
恐らくではあるけれど、私はそれはもうしたたかに総身を地に打ち付けたことだろう。
まばたきがうまくできない。眼球が乾く。閉ざすことが難しい眼界で、現状を追う。
肉体の幾つかを光に攫われた原生生物は苦しげにその巨躯をくねらせ、砂埃を巻き上げていた。
対する、“光”の主は。
間髪入れず、十字を画く様な所作からまた異なる光を放つ。

「――『明星へ登る』」

そう唱えながら、右手の親指、人差指、中指の先を合わせ、薬指と小指を曲げた手の形状から、仮面越しに額をなぞり、描き出す十字模様。儀式めいたそれのあと、仮面の隙間から大粒の光を呼び出すと、幾つもの光線として撃ち出す。
嘘だろう、あんなにも非道でありながら、祈るように力を振るうのか、この人は。
幾つもの光の軌跡が流星群さながらに宙を躍り、的確に原生生物の七つの尾を、否、生を削ぎ落していく。
ぼっとん、ぼと、びた、ぼとんっ、というおめでたくはない肉の落下音が、癒え始めた鼓膜を揺さぶった。

「カッショウガシラに捕えられた際、5層の負荷を受けられたようですが……腕を拘束されていたことが不幸中の幸いでしたね。おかげで自傷行為には及ばずに済んでいますから」

黎明卿の品と重厚感のある低声に、私は身を竦ませた。
地に落ちてなお暴れ狂うカッショウガシラの肉片が私に襲い掛かろうとする。怯むけれど、未だ瞼が働かない。咄嗟に瞑目することさえままならない。避けられない、と思った時だった。

「おっと、」

黎明卿は黒外套の下から生やした尻尾を静かに擡げると、それを弾き飛ばした。バヂィン、という激しく虫の肉を撃つ音が耳を叩いたかと思うと、生に貪欲な肉片が彼方へと放られる。

「……危ない危ない。あのカッショウガシラは随分と快活な子なんですねぇ」

卿が弾いたカッショウガシラの破片は幾度か手毬のように地を跳ねると、暫しの間のあと沈黙した。

「つ、連れ戻しに来たんですか……?」
「いえいえ、まさか。とんでもない。私も無理強いをしたくはないですので」
「じゃあなんで……」
「あなたが危険地帯へ突っ込んでいくのが見えたものですから。――立てますか?」

この世で一番取りたくない手を、差し伸べられている。
黎明卿の存在はまさに月が降って落っこちてくるような脅威だ。だが指も満足に握れない現状では、その手を突っぱねることさえ難しく。「ともかくこの場からは離れた方が賢明でしょう」新たな危険との遭遇を危惧した卿に、遺憾ながら抱き起される。そうして上肢が大地とのキスをやめた途端、喉の奥底から吐瀉物が濁流の如き勢いで湧いて出てきた。

「おやおや、大丈夫ですか?」

直前も直後も、嘔吐感が全くなかった。意識の関与できないところで痴態を晒して、衣類も汚して、実感さえなくて、どうしようもなくて、どうにもならない。物怖じせずに労りを差し向けてくる黎明卿が、怖くて、憎い。

「その様子では暫く苦しむことになりそうですが、この場に留まる方が危険です。少々強引ですが、運ばせてもらいますよ」

私はあっけなく黎明卿に抱き上げられた。そうだ、こんなに容易く拐われてしまえる体格だから、探窟の過酷さに折れたのだった。こんな体格だから、カートリッジ適性を見込まれたのだった。
誤って歯を砕いてしまうことも承知の上で、歯噛みしたくなった。

「それにしても……夢半ばで心折られたとのこととはいえ、あなたも元は探窟家。5層の原生生物の脅威を実感としては知らないまでも、想像には難くないものだとばかり……。アビスで情報も得ないまま無茶をなさるのは関心しません」

自分の服の襟元に大粒の透明な雫が染みていくのを認めて、初めて自分が泣いていることを知った。目頭の熱さにも、頬を水が伝う感触にも、呪いに侵された私では気づく術がない。
吐瀉物よりも綺麗な体液がこぼれていたから、消去法で涙だと悟った、だなんて。

「おや、泣かせてしまいましたか。すみません、今しがた怖い思いをしたばかりのあなたには酷な言い方でしたね。許していただけませんか?」
「……っ、ちがっ……います! 私あなたにずっと憧れていて……。えいゆう、の……しろふ、え…………。そんな、人に……ここまで連れてきてもらえてうれしかった……のに……。聞いてないです、あんなの。聞いてません! 耐えられません! 今はもう、ただ、あなたが怖いだけです……」
「なまえ。あなたは少し冷静さを欠いているようです。ひとまずは基地に戻り、落ち着かれてはどうでしょう?」
「え……」

この人は多分、去る者は追わない質なのだろう。言葉にも裏や他意はなく、危機的状況に陥っていた私をただただ善意で救ってくれただけなのだろう。きっと今だって、ただ取り乱した私を宥めようと、こうして休息の提示をしているのだろう。でも私はすでに袋小路。逃げ道は絶たれている。進む者を尊ぶアビスに帰路なんてない。
私は、飲まれてしまうことを予感していた。前線基地で正気を保つためには狂わなければならないことは既に学んでいたし、そちらの方が絶界行よりもあたたかい道のりだとも感じていた。
いつの日か倫理観がメルトダウンするときがやってくるやもしれない。


2020/07/30

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