短編

多分どっかの星の人


「あっ、そうだ、知ってますか、黎明卿。“わくわくする自殺”って言われてるらしいですよ。アビスに潜ること」

奈落の底で今も眠り続けている夢というものに、“おはよう”と目覚めの挨拶をかけるべく、そこを、其処を、底を、目指す探窟家たち。
――探窟家業が先の“わくわくする自殺”などと揶揄されるようになったのは、奈落の底で眠る夢に駆け寄れば寄るほどに、帰還が絶望的になってゆくからか。それとも憧れに狂ってしまった探窟家たちへの嘲りなのか。でどころなんぞは私も知らないが。
初耳です、と卿が関心の滲む声色で仰る。世俗的な探窟揶揄の話題とはいえ、卿の“初耳”を奪えたことが誇らしい。

「では、自殺と呼ばせないためにも、これからも尚のこと力を尽くさなければなりませんね。帰路がないのは困りますから」

帰路を絶たれてなお、前を向くこと、進むこと、そして憧憬を燃やし続けることを余儀なくされる理不尽さ。アビスに咲き乱れる理不尽の花々に、胸を躍らせるのが探窟家といういきものだ。
しかし、新しきボンドルドの起こす革命は、一世一代の大冒険に難色を示すものであり。帰郷を望めない冒険に挑む身でありながら、帰郷を実現させようとする。

「……そう聞くと卿は不思議ですね」
「ほう?」
「私、卿が帰還ルートを確実化しようとなさっているのは知ってますけど、卿自身が“わくわくする自殺”の先駆者でもあるじゃないですか」

だって、その胸元の――。
と、眼差しで示すと、「あぁ、これですか」黎明卿は自身の手袋に包まれた手でその純白の笛を持ち上げ、私に向けて翳して見せる。

「えぇ、私は私を供物にしました。そのときの私は命を諦めたわけではありませんでしたが、あなたの言うことにも一理ありますね。大変いい着眼点をお持ちのようです」

私は『命を響く石』という遺物を、黎明卿ボンドルドの遺骨や亡骸の類として大切に抱くべきなのか、墓標として見つめるべきなのか、故人の遺産として扱うべきなのか、かつてのボンドルドが命を賭して示した道筋そのものなのか、それら以外の何であるのか、未だ図りあぐねている。
ことボンドルドと云う人間が有する白笛に関しては、難儀極まりない。

「肉体の死と、魂の死、存在の死――果たしてこれらの死は全く同一の概念なのでしょうか? 人は人の思い出の中でいつまでも生き続けることができます。研究の中で残念ながら命を落としてしまった方々も、皆さん私の中で生き続けていますよ」
「卿も亡くなってますけど、ずっと人の中で生き続けてますもんね? 部下の体の中で。ダイレクトに」
「君はいつも素敵なジョークを考え付きますね。かわいらしいです。ともあれ、私の憧れもついに消えませんでした。こうして肉体を手放した今となっても」

ふ……、と。卿は自身の笛を懐古する手つきで撫ぜた。
白笛。遺骨、遺体、墓標、道標。いずれにせよ、愛するひとの屍から作った楽器が、その愛するひと自身の胸元に飾られている事実は猟奇的に思える。

「それが、いちばんはじめの黎明卿、なんですね……」
「そうですよ。触れてみます?」
「えっ……いいんですか?」
「興味津々、という顔つきでしたので。どうぞ、お好きなように触れてください。擦ってもあなたには扱えませんから、遠慮する必要もないですよ」

さぁ、どうぞ、と。手渡された白笛が私の掌のうえで転がると、卿の首にかけられたままの笛のストラップが宙でぴんとつった。
――硬い、というごくありふれた感触に対して、人間はこんなにも感動に打ち震えることができるのか、と思った。仰ぐばかりで、焦がれるばかりで、慄くばかりだった白笛に、今触れることができている。なんということだろう。けれど。嗚呼、本当に鳴らない、なんて。私では鳴らせないんだ、なんて。つぶやきを口腔で噛み殺す。
黎明卿の白笛の、指の文様。握り合い、折り重なる指と指のおうとつ、その一山一山をなぞり、調べていく。
行為としてはただ他人の遺物を拝借しているだけに過ぎないはずだけれど。
なんだか人の心音を確かめているみたいで、意識すると途端に鼓動が急いてきて、心が熱を帯び始めた。
女の手でも簡単に握りこめてしまうほどのおおきさなのに。これがかつての黎明卿なのだ、と噛み締めていくと、いとおしさが躰の芯を駆け上がっていくのだ。

私は。卿と向かい合っていたのをいいことに。
躰の重心を爪先へ集めて。
届かない高さに実る林檎を欲するように、背伸びをして。
生気のない漆黒の仮面にキスをした。
はじけるくちびるの音は、雫が跳ねるように一瞬だ。
仮面の無機質な硬さと冷たさと、血液を彷彿とさせる金属の淡い香りだけは、キスを終えてからも私の鼻とくちびるをつつきまわしていたけれど。
おや、と仄かなおどろきと関心の滲む声を卿は落とす。

「おやおや、かわいいことをしてくださるんですね。さぁ、なまえ、こちらへ……」

言いながら、卿はいつもそうするようにふわりと両腕を広げた。何をも拒まず、誰をも招くかのような、黎明卿の象徴的な所作だ。
恥じらいを嚥下しつつ、誘われるがまま身を預けると、卿の腕と尻尾が私の背を抱擁する。卿の両腕は至って柔らかに、さながらワルツで共に踊る相手を抱くかのように背中に回された。が、反して尻尾は、ぎゅるり、とこちらの胴を一周せんとばかりに絡みついてきて抱き寄せるので、私は卿の上肢に自らの上肢を寄せることになる。
卿の外套をはじめとした戦闘特化の装備品の数々は硬く、冷たく、実のところ抱かれ心地がよろしくない。

「二度目はしてくださらないのですね……。期待していたのですが」
「……仮面、冷たいんです」
「照れ屋なところもかわいいですね」

疼きが走るような恥ずかしさに伏し目になる。
照れ屋。その通りだ。
ぎゅうぎゅう、と背骨が弓なりに反りかえるほど荒く胴を締め付ける尻尾。尻尾の扱いの力加減から、卿の荒々しい人間関係が伺えて、少々案じた。
俯く私の瞳を、目下にあった卿の白笛が穿ってきた。卿の前身であるそれが不意に眼界に映ると、まるで視線がかちあったかのような心地になる。

「私、黎明卿のことがときどきわからなくなります――理解できた試しもないんですけど――、私が惹かれてる卿の本質ってどこにあるのかな、って」

卿の腕の中で私は零す。
まっとうな恋の仕方ならば地上においてきた。
とはいえ自分がキスするべき相手がわからないのでは困りものである。
愛娘や我々に印象付けるための、単なるひとつのシンボルとしての仮面に口づけるべきか。かつての黎明卿が、己を供物につくりあげたこの『命を響く石』――いわば亡骸を愛撫するべきか。
そもそも『精神隷属機』に情報体として焼き付けられた魂に恋をしている、と云っても過言ではない程だ。

「人の命や想いが一体どこに宿るのか? その答えも千差万別、まさに人の価値観の数だけあることでしょう」
「ですよね……私も人の想いは胸にあるのかなって思ってましたけど、卿に会って考え改めましたし……。遺物使えば保存とインストールできるんだなって」
「少なくとも私は、人の想いというものの強大さを前に、肉体の消失などは些末なことと考えています。かつて“私”であった“白笛これ”も今や遺物の起動装置。祈手は私として私の憧れを受け継ぎ、私もまたたくさんの子供たちの想いを繋いでいく……。
命とは尽きて終わるものではなく、繋いでいくもの。連鎖なのですよ。子を成して命を繋いでいくことや、友人や恋人同士想いを結ぶこと、誰かの想いを継承していくこと。そこには何の優劣もありません。どれもが素晴らしい連鎖です」

黎明卿は美しい言葉を紡ぐ人だ。それは決して着飾りの美辞麗句ではなく、心の泉から湧いたもの。
今も卿の瞼の裏には多くの子供たちの笑顔が浮かんでいることだろう。仮面の向こうの表情を知る由はなくとも、わかってしまう。

「私もまたその連鎖の中にある存在です。あなたは本質、と言いましたが、あなたには、あなたの信じた私を信じてほしいと思っています」

わしゃり、わしゃり。卿の黒手袋の手が私の髪を撫でる。この人はちいさいものや動物を撫でることは好きなのだろうが、下手というか、撫で方が雑だと思う。
とくとく、と卿の絶えない拍動に耳を傾ける。鼓膜ばかりではなく、卿の胸に押し当てた頬から、音に伴うあたたかな心臓の震えを感じる。これも卿本来の心臓の音ではないとは知っている。祈手への自我の継承と、肉体の移行という“連鎖”に付随した鼓動なのだ。卿に肉体を行使されている誰かの鼓動なのだ、これは。
存命だった頃の黎明卿の鼓動の速さや遅さを知る術はない。
黎明卿の本質の在り処はわからないままだ。
でもこれでいい、と思える日がいつか来る。そう信じている。
私のカートリッジを背負った黎明卿が、私の恋で祝福を受けたとき。私もまた黎明卿の憧憬と想いの連鎖の一部に組み込まれてゆくのだから。


2020/07/27
参考:ねとらぼアンサー「なぜ大穴は理不尽がいっぱいなのか 『メイドインアビス』の作者つくしあきひと、初インタビュー」

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