短編

火の群れを花に喩えるような毒


アビスに潜れば、さながら神のまなざしのもとにいるかのように全ての生命は対等で、こちらが文明人であろうとなかろうと激烈を極める生存競争の渦に突き落とされる。すべての命に平等に降り注ぐ理不尽の中でこそ、才ある探窟家は光り、英雄となっていくのだろう。
けれど私は体躯に恵まれず、ハンディキャップさえ押し返す荒波のような精神力もなく、長らく笛の色も変わらない。
これはともすればいい加減幼げな夢から目覚めるようにという、アビスからのお告げなのやもしれないと甘受を決めた折のことだ。


「――本当にそうでしょうか」

こんな体格とセンスではどんな隊でも役には立てない、と零した私に、彼はそんなふうに穏やかに異を唱えた。

「僅かな側面にだけ光をあて、才能がない、役に立たない、と一概に決めつけていいものなのでしょうか。確かに人には向き不向きというものがあります。ですが、たった一度の挫折で、未来ある若者がその芽を自ら摘んでしまうのは非常に惜しい」

言葉の主の胸元には、月より、雪より、白い笛。仮面の奥でやや籠って響く声色は語頭から語尾まで一貫して柔和で、俯いていた私に再び空を仰がせた。

「君にしかできない役割が、君が輝くことのできる場所が、奈落の底にはあるはずです。私と共にそれを探しに行きましょう――さぁ、勇気を出して、もう一度」

縋るように祈るように懸けるように、たった一本の蜘蛛の糸を掴むように、差し伸べられた手を取った。

***

夢にまで見た深界5層の闇は謎めきに満ちていて、私は前線基地で暮らすうち、喜色満面で陽射しを忘れていった。
夜行性の生物や深海魚ほど、その翅や鱗は色彩の豊かさを失していくが、アビスに長い時間を捧げることになった私の皮膚も、汚らしい蒼白である。
黎明卿は私に探窟家としての“役割”を与えなかった。卿の率いる祈手に加えられていない私は、無論仮面を身につける機もない。蛾の翅の色のように褪せた肌を隠すものがない、というのは些か心許ないように思う。

「黎明卿、私はいつ完成するんでしょうか」

風も吹かない厳かな前線基地。祭壇から厳かに登る光の柱を、視線でなぞる。

「焦ってはいけませんよ。何事にもタイミングというものがあります」

甘く柔く包んでくれる黎明卿の声色だけれど、反響の仕方は無機質だ。仄かに私の肩を抱いた手も、厚い手袋を装備しておいでだと冷たくも温かくもない。

卿に対して隷属していない私は、現時点では卿の運命共同体ではない。
黎明卿が祝福を受ける手伝いをするために此処にいるのだから、遅かれ早かれいずれは卿への思慕を証明しなければならないのだが。精神隷属機による精神の融合という、性の交わりすら凌駕する最上級のコミュニケーションをとり合う祈手と卿の関係には、百歩も二百歩も及ばないと感じてしまう。
……その祈手たちも全員が卿自身だというのだから、脳を廻すことを放棄したくなるけれど。前線基地は黎明卿とその愛娘と便宜上婚約者の私だけの閉鎖空間、とひとまずは捉えている。

「……すみません。プルシュカの成長した姿を見ていると、自分がここに来てからそれだけ時間が過ぎたんだと実感してしまって」
「特に子供の成長は目覚ましいものですからね。元気に冒険を繰り返す姿は感慨深いものです」
「そういえばもう一緒にお風呂に入っていないそうじゃないですか。あれって卿が拒否られたんですか? 『もうパパとは入らないから』みたいな」

プルシュカも女の子ですね、なんて。私はお道化て笑ってみるものの、実のところ内情はあまり穏やかではないので笑顔はいびつだ。

「プルシュカももう時期一人前のレディです。入浴も一人でしてもらわないといけません。親としては寂しいですが」

レディ……。舌の上で復唱すると、卿が静かに頷いた。

「えぇ」
「プルシュカは……そっか、完成が近いんですね」

前線基地の実態は、私にとっても既知のことだった。
「家族愛や友愛ではなく、恋愛におけるカートリッジの性能……確かめておきたいですよね」とは私を基地に招いて間もないころの黎明卿の言葉である。
恋愛感情を知っている被験体。それが私の基地における存在理由で、手段選ばずだと人々を戦慄させてきた新しきボンドルドの実態。
卿の気を引く何かが私にあったから婚約したのか、はたまた私が卿の婚約者だから卿は私に好意的に接しているのか――いまをもって謎である。が、鶏が先か卵が先かを気にかけても時間が溶け行くだけであるように、これもまた論ずるに値しないことなのだろう。
プルシュカを育て上げ、カートリッジの被験体の子供たち一人一人の名前や性格を把握している卿に、我々地上の物差しは宛がうべきではない。断じて。

ただ、いつの頃からか私は卿を慕っていた。陶酔していると言い換えても構わない。
どの様なカタチであれ、力になれればと願っていた。どの様なカタチになっても。この身がどの様な形状に変り果てようとも。
ゆえに焦燥感に身を焦がす。
自分の“完成”があまりにも遠くて。

「なまえ、どうか焦らないで――大丈夫です。私たちは素敵な家族になれますよ」
「はい、そうだといいです……」

黎明卿の言葉はまるで霊薬のように焦燥感や危機感をまどろませていく。
おかげで卿が地上では名誉と畏怖を同時に轟かせた、指名手配犯の白笛であることを忘れてしまいそうになる。

***

ぐっ、と躰に差し込まれるメスに、反射的に喘ぐ。それまでは、つぅ……、と肌の表面に優しく触れ合わせるように踊っていた鋭利な先端の質量感を、皮膚の直下の、肉の内部で直接味わうことになり、息が乱れた。しどろもどろに酸素を呼び込む肺だけれど、加工場の空気はとても美味とは言い難いもので。
誰のものとも知れない血飛沫の痕が乱れ飛ぶ加工場に、衛生的な配慮はなくて、加工を施されてからの我々の健康状態を顧みないことを語っている。

「あなたはこんなにも小さな身体で、この奈落に挑もうとしていたのですね」
「けっきょく、むりでした……けど……、私は……くっきょう、じゃな、い、ので……探窟家、向いてな、ぅぁ、い……」
「卑下することはありませんよ、もっと自信を持ってください。あなたの瞳から憧れが消えたことは、ついになかったのですから。その勇猛な魂は我々探窟家と同じ、誇り高いものです」

手術台に横たわっているいま、見えるのは、開かれた自身の腹と、そこを丁寧に掘る卿の姿くらいのものだ。自身の内容物が着々と取り出されていく様を――赤子を胎から取り上げられているかのような、清々しいような、神々しいような、酷く気怠く息苦しいような、そんな気持ちで眺めていた。
しかしそうして卿に全てを捧げて、委ねて、高揚する半面で、時折光と影の区別がつかなくなる。私の知ったことではないけれど、私のからだは絶えず悲鳴をあげ続けているのだ。

「……黎明、卿……。手、を……握ってほしいです……」
「えぇ、もちろんです」

赤子が母のぬくもりを求めるかのように、震える手を懸命に卿へと伸ばして、卿の着込んだ外套の裾を引っ掻く。私の手が力尽きて手術台に落ちるよりも前に、卿はしかと握り締めてくれた。指が絡めば、震えも伝わり、気恥ずかしい。

「おや、少し震えていますね。まだしばらくは痛むでしょうが頑張ってください」

卿はそう私を労わった刹那、今この瞬間まで握りあっていた私のこの手を、腕の根ごと切断した。
痛い、痛い、と悶えてばたつかせるための下肢はすでになかった。もうずいぶんと前に、腿も脹脛も、摘出された癌腫瘍のようにどこかへ運ばれたあとだった。

卿のその手で裸以上に暴かれてゆく。
皮膚を剥かれる。露出した素の血肉は、無遠慮に外気に晒され、なぶられ、痛く、寒い。こんなにも命の危機を伴う寒さを私は生まれて初めて味わった。
私って、こんなに赤かったのか。私ってこんなに。
不満足な呼吸を繰り返して、かろうじて鼓動を繋いでいる。命を、1秒後に繋いでいる。

「あの、卿……。わた……し、は……どうなるん、です、か……」

渾身の呼びかけ。掠れ声だ。不細工なまでに。
それにしてもなぜ私はこんな愚問を口走ったのか。

「ひとつになるんですよ」

黎明卿は落ち着いた優しい声色で応じてくれた――まるで睦言のように。
愛娘のカートリッジとしての完成を「レディになる」と表す黎明卿の口だ、私を“完成させること”は睦言を語らうかのように表すのだろう。
四肢、及び、耳、唇、そのほかの細かなところはもう処分済みやもしれない。
でも最後に卿に握られたあの手は幸せだった。最後に卿の声音に震えることのできたあの鼓膜は幸せだった。最後に卿の像を結ぶことのできた眼球は幸せだった。


2020/07/16
2020/07/19 編集

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