短編

プリズム・ピアスホール


「アーサー……? ごめん、入ってきてもらえる?」

ラスベガス、ホテル・ギルダレイ。贅沢にも私室としてあてがわれたベッドルームに、私の呼びかけは弱々しく響く。


――今日も今日とで賭博場を巡るつもりであったはずなのに。時間は呼吸の都度、挙動の都度、そして焦燥を募らせるほど、消費されていく。
私は朝から絡まる髪と格闘し、パフとメイクアップブラシを手にあうあうと呻き、慌てて……と無人のベッドルームの壁に向けて醜態と痴態を晒し続けていた。
『お気に入り』登録していたアーサーに、着替えるから、と一時退室してもらっていたことは正しく英断。戦いに出てもいない私が、化粧品やヘアスプレーを相手に悪戦苦闘している様は無様の一言に尽き、とても見せられたものではない。女子力の敗北である。
いよいよ戦局も最終幕を迎えようとしていた折、これまでの苦闘を一蹴せんとする嘲りの難関が私を阻んだ。

ダ・ウィンチちゃんの厚意に甘えて仕立ててもらったドレスワンピースの魔術礼装。エレガンスの香る大人びたラインと、鎖骨を見せるデコルテから袖にかけてのチュールが、ブラウスと青いリボンの淑やかな礼装よりも、仄かに、大胆な。
参った、と唇の線を歪める。袖を通してみて遅まきながら気づいたのだが、背中のファスナーを最後まで上げ切るには私の腕では短く、そして硬いのである。
アーサーを呼んだのは、嘆息を伴う苦肉の策だった。

「出陣かい? マスター」ノックを欠かさず、入室してきた彼は私の姿を認めるや否や「……失礼、着替えの途中だったみたいだね。もう暫く表で待機していよう」と呼びつけられた側にも関わらず退こうとする。

「わー! 待って待って! ――わっ!」

履き慣れないピンヒールが枷になり、私はよろける。がくんっ、と大きく揺さぶられる眼界に、豪華絢爛なラスベガスの地に来てまで傷を増やすことも覚悟したけれど。
瀟洒な身ごなしで駆けつけてくれたアーサーが、間一髪、抱きとめてくれる。
あ、ありがとう、とばくばくと叩きつけられる鼓動を抑えて、ぎこちなく述べる。
嗚呼、どうしよう。お願いするよりも先にドレスワンピの後ろが無様に開いたままだと知られてしまったやもしれない。

「マスター、非常に言い難いのだけれど……やはり身支度が済んでいないみたいだね。いや、もしかして僕を呼んだのは……」

さすがの直感だ。

「やはりそうか。でも、そういうことなら他の女性の手を借りてもよかったのではないかな」
「マシュは手が離せないし、清姫には着せてもらうどころか脱がされる……」
「なるほど。わかった、僕が引き受けよう」

サーヴァントとはいえ顔立ちの綺麗な異性に守られていない背中を任せるとなると、どうにもこうにも落ち着かない。霊衣“ホワイトローズ”のタイをきちりと締めて、名の通りくすみのない白薔薇色の裾を宙に踊らせるアーサーには、平素の青色と銀色の鎧姿とは異なる眩しさがある。聖剣を帯びた勇しさから一変しての、純白の正装姿のまばゆさと来たら。どぎまぎしてしまう。
しかしながら。へっぴりごしの私なんぞとは精神の豊かさが桁違いなのだろう騎士の英霊は、至って柔和な物腰に背後に立った。
ジジ、というファスナーを引き上げる音が滑らかに鳴る。私がもがくように引き上げていたときはつっかえつっかえだった癖に、なんて思う。

「一国の、それも伝説の騎士の王様をこれだけのために呼ぶとか本当申し訳ないです……」
「困っているレディに手を差し伸べることもしないとあっては、それこそ騎士の名折れだ。それに今の私はサーヴァント。マスターである君に尽くすことは至極当然のこと――と、認識しているよ」

異世界で関わったという誰か――なのか、はたまた何かなのか、いずれにせよ私に走る由もない存在――を日向と表した彼。そして私のぬくもりがあるとそれを思い出す、とも零していた。
私からすれば、彼の忠義こそ日向のように優しく柔らかく愛おしいものなのだけれど。

「さぁ、できたよ」

そっ、と。気品を帯びた所作でアーサーの手が離れて行く。

「聞いてもいいかい、マスター。なぜ突然そのような煌びやかな格好をしようと?」
「アーサーこそ、どうしてホワイトローズの霊衣なの?」
「嗚呼、これはね、どうやら僕ではないペンドラゴン曰く、“華やかな場には正装こそ相応しいもの”なのだそうだ。そういうものなのかと思って僕も着替えてみたんだよ」

それは恐らくバニー正装だ。

「……私はアーサーのその霊衣に合わせたかったんだよ」
「僕にかい?」
「うん。いつもの夏の魔術礼装だと……それこそ“相応しくない”っていうか。周回だけど、アーサーがそんなにかっこいいのを着るなら私も並んでて恥ずかしくないものを着たかったんだ」

赤らむ頬も、背中を頼んでいたときならまだ隠しようもあったけれど、しかと視線を結ぶ今は堪忍がならない。
整え艶めかせた髪も、鮮やかに彩った唇も、不慣れなシルエットのドレスワンピも、ぜんぶがアーサーのためなのだ。なんだろうか、贈り物のリボンを眼前で解かれてゆく折のように胸が高鳴る。

「なら、その心遣いを無下にはできないね。マスター、どうか僕に君をエスコートさせては貰えないだろうか?」
「え……えっ!?」

まるで御伽噺の騎士が王女に忠誠心を示す様に、である。制止の声も咄嗟には出ないほど、流れるように。アーサーは私の手の甲に唇を寄せた。

「い、いいよ、そんなエスコートとか……」

私には階段を駆け上がる、革命的なシンデレラストーリーは似合わない。精精魔法使いと邂逅を果たせないまま、暖炉の側で煤だらけになっているくらいでいい――漂白されたこの星を救ったら、また家と学校を往復する毎日に還るだけなのだし――。
せめて隣に並ぶに“相応しい”存在でありたかった、というだけのはずが、エスコートだなんて贅沢な特級特権まで手に仕掛けている。躊躇するのも及び腰になるのも当然だというのに、彼は。

「ごめんよ、言葉を選び間違えたみたいだ。僕が、僕自身が、マスターの心遣いに誠心誠意応じたいと思っている。
足元も少し心許ないようだしね。また転んでしまいやしないか、と少々気掛かりでもある。
君の手を引き、ラスベガスをエスコートできる特等席を僕としてはぜひとも得たいものなのだけれど。どうかな?」

不便で不慣れなピンヒール。普段は避けてしまう踵の高い靴も、このおちゃらけた真夏の特異点なら厭う謂れもない、と選んだものの。アーサーの言い分は図星で、実装先ほど転んだところを助けられたばかりだ。
けれど。この騎士道に生きたひとが今日1日目をかけていてくれるのならば。案ずる事なんて何もないのではなかろうか。

「……お任せしてもいい?」
「もちろんだとも」

手を握られると、エーテルの編んだ熱とは信じられないほどにリアライズされたぬくもりが、存在が、伝わる。

「そういえば、そのドレス、身に纏うだけでそんなにも悪戦苦闘していたのだから、きっと脱ぐにも大変だろう。今夜も僕を呼んでもらえると嬉しいのだけど」

今になり、髪の巻きは無事だろうか、だとか、アイラインは本当に滲んでいなかっただろうか、だとか。沸沸と湧き上がる細かな心配事は、アーサーの心臓を色めかせるには充分すぎる一言で、彼方まで飛び去っていた。

呼ぶ、と即答する以外に正解答があるだろうか――否。
それよりも、彼は着替え手伝ってくれた後も一緒にいてくれるのだろうか?


2020/06/10

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