短編

余熱で頬も焼けてしまいます


馬の白雪の色の毛並みを丁寧に櫛で梳いては、いとおしそうに語りかける蘭陵王は甲斐甲斐しい。たびたび馬と戯れる彼を見かけるけれど、その背中と微笑はいつだって慈しみの心で満ちている。
戦場では馬とともに華麗な剣舞を披露して敵陣を裂いて、よしよしと労わって。

「お前はいいね。ああやっていつもかわいがってもらえて、いいね。きっとこうして撫でてもらってるんだろうなぁ」

蘭陵王当人がマイルームを外しているのをいいことに、私は、ちょっとした身勝手を白馬の穏やかな瞳に溶かした。

「蘭陵王は褒めてくれるけど、あくまでも私に“仕えてる”って意識。私だってさ、動物とかペットみたいにではないけど、甘やかされたいんだ……」

語を理解しているのか、いないのか。幽かにいななく馬の、鼻筋をそうっと撫ぜた折。背後から鳴るドアの開閉音が私の背筋を凍えさせた。
「蘭陵王、ただいま戻りまし、」今まさに入室してきた蘭陵王の、仮面の奥で戸惑いを帯びている双眸が、否彼のその存在そのものが、失言を犯した私に斧をふりあげている。羞恥でしっちゃかめっちゃかの頭を真っ二つにせんとしようとしている。死が眼前にある。

「マスター……」
「ら、蘭陵王。戻ったの!?」
「えぇ。ですが、今のは……」
「ぎゃあーっっ!? 聞かなかったことにして!!」

ウィ――ン、ピシャン、と。
華奢な肩を一押し、豪奢な仮面と目元口元にすら香る美貌の残滓からは目を逸らし。私は突進する猪の如き勢いで蘭陵王を追い出す。

「えっ! えぇっ!? ま、マスター!? なぜ私を追い出すのですか――扉をお開けくださいマスター!! どうか!」

私は籠城する心積もりでいた。けれど次第に悲痛さの滲み始める蘭陵王からのノックと訴えに、加えてサーヴァントの彼なら霊体化によって壁を潜り抜けてくることなど朝飯前だろうに、それを行わないあまりに律儀で難儀な性には、敵わなかった。
刹那的な籠城もとりやめにして、どうぞとふたたびの入室を許す。すると蘭陵王は、主の恥曝しに等しい理不尽を咎めることもせずに、先ほど私に断ぜられてしまった言葉を改めて口にするのだ。

「蘭陵王、ただいま戻りました。マスター、部屋へあがっても?」

***

「あのように影でこそりと仰らずとも、私はあなたが願うのでしたらいつなんどきにも奉仕をお約束し、尽くす所存でした。ですがマスターが私を直接に頼ってくださらなかったということは、私の忠誠が充分に伝わっていなかったということ。そして、この蘭陵王のこれまでが、マスターからの信頼を得るに不十分であったということ……。これはこの場で証明しなければなりますまい――あなたのサーヴァントとして仕える、私の意志を」
「えっ、ほんとう? じゃあ令呪を以て命ず――」
「お待ちくださいその手を下ろしてくださいそしてどうか落ち着いてくださいマスター目が据わっていらっしゃらないお気を確かに! ……こほん。そのように貴重な一画を頂戴せずとも、私はあなたの忠実なるサーヴァント、必ずやご期待に、お望みに、その声に、応じてみせましょう。そしてその令呪、真に必要な折までは、どうか大切になさるよう……」
「そうだね。そうだ。冷静じゃなかったね、私。マジごめん蘭陵王」
「……して、私に御用とは一体? 何をご所望でおいでなのですか?」
「いやさっきドアのところで思いっきり聞いてたじゃん。知ってるからね」
「いいえ。いいえ! 断じてそのようなことは」
「………………本当?」
「申し訳ありません……。最初から全て存じ上げたうえで、マスターが秘めておかれたいことなのであれば、触れるまい、と」
「ほら! ほら!!」
「ですが、それであれば令呪を行使する間でもないことです」
「ごもっとも……。うぅ、ごめんね……。撫でてほしかっただけです……いつも馬によしよしってやるみたいに……。すいませんっした……」
「ほかでもないあなたがご所望だというのなら、全身全霊をもって果たさせていただきます」
「う〜〜ん! ちょーっと重いかな〜!?」
「それはもう、重い、重い、大変重大な任務ですとも。本来、我が主を、言うなれば馬と同等に扱うなど……ましてやその御身に触れるなど、不躾の極みとさえ云えることでしょうから。
ですがお疲れのマスターを癒すのもまた、サーヴァントとしての務めのひとつと言えましょう。可能ならば、マスターがマスターとしてではなく、鎧を脱いで過ごせる瞬間を贈りたい。どうかこの私にすべてを御委ねください――謹んで奉仕致します」
「!」
「あなたの癒しとなるように。あなたが、また明日から前を向いて歩いてゆけるよう、そのための糧となるように。頭など幾らでも撫でましょう、幾らでも労わりましょう」

水鏡の波紋の、その輪のひとつでもなぞるかのような手つきで、髪の一本一本さえ慈しんで、細胞の核も全部隅々まで肯定してくれる、彼は。まるであやされているみたいな。

「お疲れなのですね、マスター。……よしよし」

あ。本当にあやされているんだ。
鼓膜をとらえて離さない、労いの“よしよし”に私は随分浮かばれたように思う。

「……おっと、これは失礼しました。つい馬にかけるような言葉を……」
「いいんだ。そうして欲しかったんだ、私」

ともすればその言葉を聞きたかっただけ、なのやも。
だからいいのだ。


2020/01/20

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