短編

この瓶底が終点駅ならいい


四角い枠に囲まれても、何も損なわれない存在。不意に揺すり起こしたカメラアプリのフレームの中心に降谷さんを据え置いて、ほほう、と人知れず端正さに見惚れてしまう。端末をも虜にする横顔に気付けばピントは吸い寄せられ、リフレッシュルームの背景は霧がけられて霞んだ。
三日月みたいに綺麗な横顔の、半分の瞳はこちらのレンズ越しの視線に気づいたようだけど――彼だけが知る私の冗談を言う時の癖が今もまたしっかりと滲んでいたのだろうし、はなからシャッターを切るつもりのない端末を抱えるだけの指も碧眼が認めてもいたのだろう。お叱りは飛んでこない。その上に。

「ははっ、どうしたんだ?」

へらり、と柳眉を下げて安らぎ切ったような。胡散臭くも甘ったるくもなく、怪しくも挑発的でもない、正しく降谷零さんのプライベートの笑顔。
自動販売機で落とした缶珈琲と私だけで独り占めするのに背徳感と罪悪感の影を引かせる平等主義なんて要らないのに。骨の髄まで染み付いた教育を恨む。

「いえ、なんとなく、です。何か残さなきゃならないのかな、と」

なんとなぁく、だ、と。妙な反芻を奥歯に挟む。自身の膝元に携帯端末を下す。

「キスしてると顔見えないもんな。記憶には残らない」
「……ばか」

信頼なのだろう。解っているから茶化せて軽口も叩けて、照れ隠しに殺伐とした言葉を選べて、知っているから冗談を言う口の癖を見抜いて安堵できて、見抜いてくれると思っているから撮影絶対不可の相手にカメラを構えられる。

「確かに――そう、だよな……。もう俺には何一つ記録が残ってない」

だからこのまま消えてしまったら。

「辿られずに済むのはいいが、望んだ相手の中にも残れないのは寂しいな」

とっくのとうに飲み干していた珈琲の空き缶を潰そうとしたけれど、思えばスチール缶……なんて考えていたら、同じく隣席で眠気覚ましを試みていた降谷さんが珈琲缶を片手で歪めていらっしゃり。うわぉ、と場違いな剽軽さで頬の筋肉を痙攣させた。

「記憶――情報はキーワードと関連づけて記憶しろ、と云う。何かの拍子に連想して思い出したりするだろ? あれだよ」
「思い出、ですか」
「恋人には花の名前を必ず教えろ、花は毎年咲く、と書いた作家もいた。まぁ、それ抜きでも作っておいたほうがいいかもな。もっと食わせてやればよかった、とか。今考えても……もう……」

驚愕であったり嫌悪であったり、感情を伴う記憶が残りやすいというのは体感を以って知っているけれど、ともすれば殺意もその限りになり得るんじゃないか。
組織内でスコッチというコードネームを与えられた降谷さんの幼馴染。彼も深くに潜るにあたり自身の身の上に繋がりかねない部分は余すことなく燃やしたはずで、育った分だけの時間も、明確な形の記録が残っていなければいつ煙に巻かれてしまうかもわからない。でも降谷さんの憎しみとそれが差し向けられる人物の佇む場所には、鮮血と忘れてはいけない人物もまた存在して、いるのか。

「君は消えてくれるなよ」

彼は自らの学生時代をあまり物語らない。けれど隠すつもりもないようでこれまでにも彼の過去の破片はほろりと落ちては風に混じり、私の心臓に刺さって。きっと幾人もの大切な存在に先立たれているのだろう。

「俺が死んでもお前は生きろ、なんて身勝手仰ったら嫌いになりますからね」

貴方ほど強くも美しくも高潔でもない、一般市民に少々の正義感を足したくらいの私にその業者に許された連鎖を引き継ぐのは今世紀最大の誤りだ。
私の影を反射するアリスブルーの瞳孔を、微かに揺らして。しぱり、と瞬きを散らして、私から外した視線の先に深めに息吹いた。

「嗚呼、その残酷さは一番よく知っているつもりだ」

夢醒め際に殴りかかってくるような思い出の瓦礫をも葬りたいと望まない背中にはとても触れられそうもない。

「大丈夫ですよ、置き去りになんてしません。でも私も独りになるつもりは、ありません」

きっと一緒に終止符を打ち付けられることになるのだろうから――眠るような穏やかな地球最期の日は、私達には夢のまた夢だろうから。
嫌な現実感の尾を引く空想に、私は大きな嘆息で酸素を濁す。

「はー……、本当、降谷さん恋愛向いてないですよ。世界が終わるっていう時にも最前線で日本守ってるでしょ?」

よくわかっているじゃないか、とでも仰るようにふっと鼻で笑う降谷さん。

「ならお前は見る目がないな。自分を最優先にしない男を選んだんだから」
「ふふ、感謝してくださいね。降谷さんがこの国のために奮闘している時、隣にいられるのなんて一般市民じゃない私くらいなものです」

最後の、最期じゃなくたっていい。何かが宇宙の彼方から降ってきて、着弾するまでの騒動はきっと数分はあるはずだろうから、その中で一度でも抱き締めてキスをしてくれたらいい。それだけできっと幸福は生まれるだろうから。
小麦色の手からごみ屑篭に放られた潰れた珈琲缶の放物線を視線でなぞる。

「それ、貸せよ」
「え、はい」

疑問符を引きずったままでも手渡すように命じられた自分の端末を渡してしまう辺りには薄っすらと職業病が滲んでいた。訂正するなら上下関係だろうか。
カメラとライトと限られた通話に限ってはパスコードとフェイスコードを読み取る必要がないので、すいすいっ、と降谷さんは画面を呼び起こす。
「ほら」と肩を抱き寄せられると、それはもう綺麗に微笑んで笑窪までもをこしらえた降谷さんと、きょとんと素っ頓狂な顔の私が内側のレンズに吸い込まれる。

「あの、写り完璧すぎません? 顎引いた上で私の頭部で小顔公開狙うのやめてください……」
「ポアロでJKに聞いたんだ」
「じぇーけー」
「お前もなかなか写真写りいいな」
「なんか微妙……。もっと安室さんぽく褒めてください」
「なまえさんはお綺麗ですね〜。僕が嫉妬を買ってしまうんじゃないですか?」
「すごいすごい、即興あむぴ!」

撮影後に待ち構える容赦無い消除も、データを復元されては無意義に等しい。そもそもシャッターさえ押す気がないのが彼の指、端末の持ち方だ。現実に引き戻されるのではなくずっと頭上から“現実”に見張られているから常に頭の全部では夢を見れない。
ほうら、やっぱり。残せやしないのだから。

「ねぇ、降谷さん。こんなことしても」

虚しいだけじゃあ、と紡ごうとした口は外界から堰き止められる。
膝に端末の重みが託されて、放られて、それまで端末を構えていたのだろう降谷さんの腕が旋毛をより抱き寄せた。
キスっていうのは本当に誤魔化すのに適している。鼻先も交わる距離感で見つめ合ってみる。その碧眼で虚無感から目を逸らさせて。


2018/05/29
BGM:「無垢な季節」(ゲスの極み乙女。)

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