短編

まるで愛し子のように眺めてなぞって、それで満足できた夜でした。


少し泥のこびりついた二年目のスニーカーは通学路を歩く分には然程影響は無くて。それにどうせウィークエンドには愛らしく煌やかな私服に袖を通すのだから、通学用は履き潰し尽したこれだって構わないと買い替えから逃げ伸びている。校庭と通学路と季節の砂埃と、妥協に塗れた薄汚れの靴に突っ込んだ脚で、とぼとぼと頼りなく、影を揺らめかせながらだけど、それなりに今日も私は歩めていた。
名探偵の事務所の真下の喫茶店は自宅までの通過点。本当は野良猫に紛れて家々の隙間でも塗って近道を通った方が短縮できるのだけど、不審者がどうこう、というプリントを小学校から中学校に至るまでに沢山貰えば、いい加減恐ろしさに背も向けられず、脅されたように暗い場所は避けてしまう。
幾つものメデイアから名を轟かせる、睡魔に見初められた探偵の居場所と、床と天井を重ねた店。そんな喫茶店で近頃になって働き始めた人の良さそうなお兄さんが、今日は御店の外を掃いていた。心許ないお小遣いで閑散とした家から逃避させて貰うこともあって、お互いの名前を知り合うくらいには顔馴染みだ。だから今日も塵取り片手にコンクリートと睨めっこをしていた安室さんは私の制服を知覚すると至って営業的に笑いかけてくれる。――私に気付く前に瞳を目尻の方に動かした素振りも無かったので、昨夜見た再現ドラマのベテラン刑事を思い出した。ベテランともなると眼球を止めたまま隣の人のATMを覗き見るなんてこともお茶の子さいさいらしい。

「あぁ、なまえさん。今帰りですか?」

どうしてだか一回り以上も年下である私を相手にしても丁寧な物腰を微塵も崩さない安室さん。柔らかな声音に胸中でくすぶっていた嫌な思いが一瞬薄らぐけれど、翳された掌の男性的な骨格が目に留まると、何だかもう逃げ出したい。私は不慣れな会釈をひとつ残して、スニーカーを急がせようとしたけれど、そうもいかないのが今日という日で。
背後から迫る存在に第六感が叫ぶ――外界的な働きで私は重心を崩し、ぐんわり、と背筋の凍える浮遊感の中、よろめく。踵がコンクリートを掠めもしない中、背中は地球に吸い寄せられる。そして。
受け止められる。最初から抱き寄せられていたのだ。力強く。
私を跳ね飛ばすか、引きちぎるかしていたかもしれない自転車は、驚異のレッテルを道に剥ぎ棄てて恐ろしく颯爽と走り抜けていく。守られたのはあれからだ。

「……大丈夫でしたか?」
「は、はい」
「おや、少々顔色が優れないようですが。暑くなってきましたからね、少し休んで行かれては? サービスしますけど」
「いえ大丈夫なので……」

浅く、跳ねた息と共に飛び出る応答。大人と相対するのは一人ではあまりに不慣れだった。草食獣のように引け腰で、適当なところで本当に逃げ出すつもりでいたけれど。
数舜に渡り私を抱いていた腕は咄嗟だったにも関わらず腰に少し触れる程度で、私の人権と貞操を踏み躙らなかった。道の端っこの安全地帯に引き寄せる折の剛腕も私の頭上には振り翳されない。

「あの、」

喉が瓦解した。

「安室さん……助けて、ください」

仰いだ異国の碧眼に、メーデー。しゃくりあげるかのように鼻で浅く息を吸い上げながら救難信号を吐き出してしまったものだから、うまく声に乗ってくれない。
それに失敗もしてしまった。助けが欲しかったのは今じゃない。少なくとももう数十分は早くに求めなければ何の意味も持たないメーデーなのに。

***

ちょっと嫌なことがあったんです、と吐き出す唇は淡い動き、浅い呼吸。カウンター席で縮こまって。
言葉は用意していなかったから隠したがりの子どもの相談事のようになってしまったけれど、特にそれ以上深くは訊かれなかった。
本職は探偵らしいのに探る真似はせず、掘り返さず。涙腺に力を込めても千切ろうとしても流れない、私の見えない涙を大人のひとはただ抱き留める。
ここで、通学バスで痴漢に遭ったんです、と吐き出してしまえばきっと案外なんてことはなく、事実がテーブルに転がるだろう。
犯罪と謳われながら安っぽいポスターやら免罪やらで、浮き世にはありふれた単なる不快感、その認識の域を出ない。犯罪にすらなり損ねているような、底の知れているようで輪郭さえ判然としない、そんな何かに接触してしまった――だけの、こと。
ここで零してしまえばそれだけのことでしかなくなる。きっとそもそもその程度の出来事でしかなかった。
何せ私が喚くに値するか値踏みするのは周囲の大人なのだから。私の流していい涙の粒数は一滴の誤差に至るまで誰かが決めるのだ。
一個人の被害ではメディアも飾れない軽犯罪を遠くの他人事として不気味がるだけだった頃と、理解の及ぶ範囲は変わらない。ただ感情論は付加されて。しかしやはり知識量が白昼夢の中で増したわけでもないのだから、自分が何に怯えているのか、この胸の形を恐怖心と形容していいのかもわからない。
“サービス”のアイス・アールグレイティーの汗をかき始めたグラスから、つつぅ、と尾で筋を靡かせていく一滴。崩れる氷とシロップで凹凸のできた紅茶の水面を、手を付けるでもなくそこに憂いて睫毛を伏せる。
食器を拭いていたカウンター越しの安室さんがまっさらなソーサーをかちゃりと置いた。陶器の奏でる微音に安室さんの存在感と現実感が脳裏でことさら強まったところで、ふいに彼は波紋を投じる。

「合わないタイプの人とは距離を作ってしまっても案外平気なものですよ。周りが全てなのなんて今だけです。どうせ卒業なり就職なりで別離する――僕も学生時代の縁なんてほとんど残っていませんから」
「ありがとうございます。でも友達の事ではないんです。なので大丈夫、です」
「そうでしたか。推理が外れてしまいましたね」

大したことはない場面で、何か大きな言葉を組み込むとちゃっちいものに思える――つまり、思わせられる。推理、なんて言ってそんなことはしていない。けれどとても聡明な方なのは私も薄々感じ取っている。まるでカモフラージュ、だ。

「ひとりで帰れます?」
「え?」
「まだ少し思わしくないようでしたので。僕の車で途中までよければ送りましょうか。今日はもう少しで上がれますから」

厳かな両親の声が鼓膜に響いて、それに押し出されるように、反射的に遠慮が飛び出そうとする。だけれど、なんだか。少女でも娼婦でもなく、仄かな対等さ。それにまだ保護下にあっていいと言葉を掛けられているかのような。少しくらい寄りかからせて貰ってもいい、のかな、と。
格好いい男の人が車に乗せてくれる、というお誘いへの淑女の応じ方なんて学んでこなかった私は一介の女学生らしく、子供らしく、お願いします、と精一杯の丁寧語を用いて甘えてみた。

***

乗せてもらった安室さんの車は無垢な程にまっさらで、丸っこいライトの形状は釣り目がちな現代の軽自動車の中では珍しく、スポーツカーとは伺ったけれどそれにしたって何だか可愛らしい。
そのミルキィスマイルを目的に来店する女性客もといファンを多く抱える安室さんのプライベートスペースで、私は助手席。一介の女学生の持ち物らしく、もう少々私の心臓はときめきに打ち震えたっていいくらいだと思うのだけど、ひとりで勉強机の前に座している時よりも胸は静やかなくらいで。
昨日まではほんの子供だったはずで、法的な基準に達するまではずっと子供のままだと思っていたのに、何を合図にしてか大人になるのに先んじて性を注視されて、それを喜ぶべき、と受け入れる大人の容量までも求められて。恥じることではないのは認識として持ち合わせているけれど、曝け出すのは恐ろしい。そうっ、と胸に抱きしめたまま立ち上がりたかった、秘め事のかたちをしたものを、無遠慮に鷲掴みにされて瞳孔をかっ開いた。誰かに打ち明けて荷物を減らして欲しかったけれど、二次的に他人の物差しを宛がわれるのを気味悪く思ったのだ。
通学路の喫茶店の爽やかなお兄さんは色恋沙汰では視野には浮かび上がらないだろうし、そのお兄さんの様々な視野にはやはり私もいないのだと思う。注目も目撃もされない幸福を大人のひとは教えてくれたのだ。

「安室さん、すごく聞き上手。少し安心出来ました」
「アハハ……助けてくださいなんて言うものだから、不審者でもいたかと思いましたが」
「すみません……次からは適切な言葉を選びます……」
「いえいえ。助けになれたのなら何よりですよ。“本業”じゃあなかなかこうもいきませんから」
「……?」
「探偵もヒーローも行うのは打破でしかない。人並み以上に善悪への意識や正義感――正義観――があっても、平和になった後の世界には興味が持てないのが、性なのでしょうね」

現実主義者の大人の瞳を通した、リアリズム溢れる映画評論が美しく淀みなく編まれていくかの様だった。

「感謝しようとした時にはいなくなっているのは、悲しいです」

私が睫毛を伏せた先にはお行儀よく意識的に揃えた自分の爪先。高級らしい車種にはどこまでも不相応なラフでぼろっちくっておまけに泥を被ったスニーカー。また通学路でかち合ってもいいように――別に前髪を気にして整えたり、輝かしいローファーを選んだり、意識するような存在ではないけれど。私には想像も及ばないスポーツカーのため、せめて小奇麗に靴を整えて結び目を気にしてみよう。


2018/05/28

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