短編

レッスン・トートロジー


シャワーが打った自分の髪にドライヤーで熱風を叩きつける中、滴る最後のシャワー水を掻き分けて携帯端末の震え声が鼓膜を焦がした。生活に割り入るバイブレーションをローテーブルからひっ捉え、画面に視線を伏せる。濁音の連なる洒落た通り名に塗り替えられてしまっているので、実名からはかけ離れた名詞からハニーブロンドの上司のイメージに起こすには数舜を要してしまった。会話での音としてならもう間違いはしないのに、字面となるとまだどうもいけないらしい。

「バーボン?」

全方位から目撃されているような日々の中、誠名を口走るしくじりは犯さない。

『……』
「どうか、されました……?」

聡明なあの人がよもや私との接点を勘繰られる危うさを頭から零しているわけもあるまい。一体どんなご用件だ。

『みょうじか』
「は、い」

コードネームも贈与されるに足らない私なんぞと異なり、相も変わらず秀でている彼とは組織内でも本職でも変化ない差で、それだけが唯一残された日常で、上り詰めなければという義務感をひとまず肩から降ろして安堵してみる。

『すまん』
「え? いえ」
『――……すみません、夜分遅くに突然電話なんて。少し気分が優れなくて』
「わかりました、すぐに向かいます」

摂って付けたような苗字の後の敬称を忘却し、虚空に男らしい謝罪を告げて、ほんの僅かに素顔を実体化させてしまうも、彼はすぐに“バーボン”を繕うが、それも束の間。
自宅とデスクの鍵束を握った折の金属音が向こうにも届いたのだろうか、跳ねる息が微かな驚愕を乗せていた。この後に『は?』と素の驚きでも続いていたのだろうけど、私は部屋着のトップスのまま脚だけはデニムに差し込んで、薄っぺらい外套を纏って裸足に靴で自宅のノブを捻った。


「まさか本当にいらっしゃるとは思いませんでしたよ」
「あんなお電話頂いたら心配しますし、来ます」

訪ねた畳の薫るアパートメントはセーフハウスなのかご自宅なのか定かではないけれど、そこは私が知るべきことでもない。

「それに私はあなたの忠犬ですから」

降谷零の、が頭につく不変は彼が例えバーボンに成り代わっていても。

「こんな時間に独り身の男の家に上がってどうするつもりなんです? 貴女」
「そんな悪い顔色で仰られたって説得力なんて微塵もありませんよ」
「おや、ご存知ありませんか? 雄は疲弊や空腹感を生命の危機と認識したとき、遺伝子を絶やすまいと考えるので欲求は増すのだそうですよ」
「コードネームも持たない私みたいな人間がバーボンと理由なく関わりを持とうものなら即刻怪しまれますけど、気まぐれに夜に相手をさせるっていう自然な口実が作れるのはよくありません? 今後の為にも」
「なるほど、本当に狗のようだ。では本気でご主人様を慰める覚悟があるわけですね?」

つつぅ、と硬い異性の指に唇を弄ばれるのはまるで映画のフィルムから切り抜いて盗み取ったかのように非日常的で、そのワンシーンの中に自分が存在しているというのがどうにも理解として胸に溶け落ちて来ない。硝子玉の双眸が視線だけで私を突き落そうとしているのは確かに現実なのだろうけど、そこに自分自身はいない気がした。

「私はあんまり見たくは無いんですが……そんな肌」

彼のてろんと薄い生地の袖を少しだけ捲り、室温に直に晒した小麦色は荒い繊維のタオルででも擦ったようにところどころの皮膚が捲れて無事である周辺も赤らんでしまって、終いには爪の引っ掻き傷までもが刻まれて。

「それより私飛んできましたから、シャワーも浴びれていないんです。血生臭いかもしれませんね、まだ。」

シャワー粒を散らした髪のまんまで、いけしゃあしゃあと。どうしましょう、なんて私は下手糞にお道化て。
私には従来から持ち得ない二文字熟語があるけれど、二文字に輪郭を合わせて肉付けたような――まさしく“高潔”な人の前で私は高潔未満の潔癖さえかなぐり捨てる。

「……ひとまず休んでください。眠るまではお部屋にいますから」
「僕の家具を血生臭くする気ですか?」
「本気にしないでくださいよう、シャンプーもトリートメントもちゃんとしてます。あぁそうだ、頭痛薬と吐き気どめなら財布に入っているんですが、いりますか?」
「吐き気どめの方、頂きます」
「やっぱりその顔色……」
「ご心配には及びませんよ」

否定も、振られるかぶりもなかった。察する通りそうなのだ。
グラス出しますね、と一応の断りを挟み込んで彼の領域に素手を差し込む。夜陰に煌めくグラスを隔てて感じる水温の冷ややかさは室内温度と大差無いところにあった。
骨の浮いた彼の喉は気品に煌めく控えめな反りかえり方と、堪らず視線で追いかけてしまう官能的な嚥下法でゆっくりとグラスの傾いた水位を下げていく。日常の一挙一動に至るまで怪しげに蠱惑する――怖くする――ミステリアスさと、こちらの行儀の至らなさを不安にさせるエレガンス、躰の芯をおかしく狂わせるエロチックな嘲り。降谷零こそが虚像だったらどうしようと杞憂と言い切れないままごとのような心配が転がった。

「人を殺すのなんて案外楽なものですね。肉にナイフを差し込んで――骨を断つのは少々面倒ですが――切り取るのとどこが違うんでしょう。拳銃なら殊更手を煩わせずに済みますし」

バーボンがすっからかんのおもちゃ箱を覗くように宣う。同胞の芽を摘み取る行為もバーボンにとってはディナー同等にしか関心を向けられないものでしかない。事実と本音がミルフィーユみたいに折り重なって、まるで嘘そのもののようだけど、フェイクは今ここにはない。
バーボンの脳髄の中の降谷さんの、更にまた胸の奥で若い男が絶叫している。こちらの痛覚をも刺すような悲鳴に私は恐れず耳を澄ませる。

「家に帰ったら幾らでも肩をお貸しします。私のでよければですが」

私の本住所の自宅でも、降谷さんの綺麗なご自宅でも、公安のリフレッシュルームでも、本当の意味でカーテンを閉め切れる場所ならどこでだっていい。

「ははっ。僕は女性に抱かれるほど弱くはありませんよ」

“僕”は、でしょう。“俺”はわからない。あなたほどの人間なのだから、異性の部下を都合良く抱いて踏み台にするくらいの落ち度があっても皆きっと納得出来るだろう。
とうとう碧眼は何の雨も溢さないまま瞑された。
彼の眠った気配は感じられないからただの瞑目であろうけど、黙せば両者深く眠ったようなワンルームだった。
私は携帯端末の蒼白いディスプレイを見つめ、アプリケーションを閉じたり開いたりを少しだけ繰り返してからぷつりとそれも眠らせる。
せっかく日常からも非日常からも遠のいた静やかさに刹那的な籠城が許されているというのに、密かに愛した瞳の色を盗み見れもしないのは悲しくあった。
彼の淡い青の目。夜陰が邪魔だ。でも夜空は去らないで。
スカイブルーの定義は国によって異なるそうだが、それは緯度や経度や気候が空の見え方に関わるからであるそうだ。この国では空は、異国よりも薄い青に感じられるらしい。彼の異国の血潮を引いた見慣れぬ青も、淡く仄かに灰色がかった色彩は仰げば手の届く場所に嵌め込まれた、馴染みのないものなどではない。周囲と異なる血筋がより愛国心を燃やさせるのかと予想を立てるが、しかし彼の瞳は誰よりも和の国の空の色だ。
しかしながら私達の愛するこの国の空というものは忖度知らずで、私の願望とは裏腹に呆気なく更けてしまう。
私も少し休まなければ。早くに老けたようになってしまう。

***

生命線を砕く鉛玉が鈍色の弾道線を今まさに描こうとしていた。銃口は私の頭蓋骨に触れる寸の虚空でぴたりと刹那的な静止状態にあるが、その静やかさも間も無く放り捨てられようとしている。死神の鎌に首を掛けられて、神経回路は澄み渡り、引き金を愛でるようにそろりと添えられる指の爪の形状までもが鮮明に視認できていた。気流を捻り、私を貫く風を、一陣、数えようとした。
刹那、迸った緋色に皮膚組織は痛みを伴わなかった。
弾けた火花と、炸裂と。どちらが先だっただろう。
じんじんと鼓動を反映する鼓膜の震えを理解に遅れて自覚する。
躰の風穴から壊れた蛇口のように四方八方に赤を吹き散らし、私の睫毛に体温混じりの赤い雫を点々と残し、私を今撃ち抜こうとしていたはずの人間が――散った。
私の爪先から数センチメートルの床に、亡き骸。水溜り、それは、赤いけど。

「まったく……危ない人ですね。お怪我はありませんか?」

靴音と、薄い影をコンクリートの亀裂に揺らめかせて、酒の名を冠するその人は片手での発射の構えからやれやれというようなポーズへと、優雅に姿勢を変える。そうして咆哮したばかり自身の拳銃の燻らせる煙を唇を尖らせて吹き飛ばし。
は、はい。すみません。もごもご謝る私を立ち上がらせ、いつものようにバーボンは笑む。

殺しこれくらいでしたら別に構わないんですが。死体の処理が面倒だ。貴女も僕を慕うならあまり手を煩わせないでください」

まるで強い香水と鉄臭に鼻が曲がった悪女みたいな台詞を連ねている。本業では死体は眩むほど見せられてきたから自分が関わっての殺し、に限った話ではあるが、てつのあじにくのここちには彼本当は可愛らしいほど不慣れだというのに、平静の演技とバーボンの振る舞いだけは馬鹿みたいに板について。そろそろ殺す自分は他人格として、自己から遊離させないと狂いそうだ。
「すみませんでした……」謝罪、二度目。では、ないかも。ピンチに至るまでの分と本業の分を加味したら。

「セーフハウスに先に戻るんですよね? お風呂用意致しましょうか」

あの死体の血を付着させた私の方が彼に対して放った親切心だった。

「ではお願いします。僕は諸々の報告を済ませてしまいますから。嗚呼、よかったらなまえさんもどうぞ入って行ってください。バスルーム、お貸しします。――これでも僕潔癖な方なんですよね」

気になってしまうんです、と彼の肌に生える白の手袋で包んだ指で、彼は自分の頬をとんとんと指しながら、私に私の頬の微量な血痕を示す。
そうですね、ごめんなさい。と、私。
この頬の赤黒い数滴が彼に忌々しい人殺しの業を想起させてしまうのは私としても本意ではない。あと、彼の潔癖さを怒らせてしまわないように。って、取ってつけて。


バスルーム高くにセットしたシャワーヘッドに私達は濡れていた。私の頬の上で水滴と混じって存在感の薄まった先刻の血液を、小麦色の指が拭い去った。棄てられた赤。人口雨粒に切り取られた狭いスペースで惜しみなく肌を曝け出してしまうと、排水溝に吸われる赤黒いものも嘘みたいに忘却出来る。
自分は何をしているのだろうだとか今更まともをほざく口が頭上に浮かんでいる、そんな妄想。他を守りたいという夢を貫いてここまで進んできた核芯ある私も、バスルームとシーツの上では陽炎みたいに揺らぐのだ。きっとこのまま口付けられたって拒めやしない。
私の頬を拭ってからずっと鬢と戯れていた彼の指が顎を掬い上げ――そのまま口付けられてしまって、拒めはしなかった。

他を守りたがるくらいのいい子ちゃんは和室派でも敷き布団の寝心地しか知らずに歩んで参りました。だから案外肌をざらりと刺してくる畳の目の痛みというもの、始めて背に知ったのです。


2018/05/17
殺し慣れてしまったわけではないです。

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