短編

きみの亡骸によく似ていた


「僕は安室透です」

どうぞよろしく、というように差し出された手が、本当の初対面時には微塵も馴れ合う気が無かったのは、心に深く刻まれている。地下世界のアリスを想起させる綺麗な髪と眼の色を有しておきながら、双眸に湛えた光は鋭利で、面持ちは顔立ちに似付かわしくないほど冷厳で。あの日私は戦々恐々手を握ったのだが、しかし今はどうだろう。
安室透との始めましてはつい今しがた済ませたけれど、現実には降谷零を含めて二度目を数えるファーストコンタクトに私は小麦色の手を握り返して挨拶を唱えた。けれど、やはり私はこんな人物とは一度もあったことはないから間違っていない。間違ってはいないのだ。
「みょうじ、なまえです……」嫌な唾液のまとわりつく舌では自分の名前すら満足に象れず、不器用な発音だったが、嚥下し途中から持ち直してしっかりと伝えることができた。
ポケットの中の『喫茶ポアロ』と記した紙片をくしゃりと指先で握り潰し、安室透への届け物を終えた私は早々に立ち去ろうとした。そもそもこうして再び蜜色の髪の青年と相見えることになったのは青年側にとっても誤算だっただろう。在りし日に、雨天の下、雨に打たれていた私を哀れんで、もう見知らぬ他人にも関わらず傘を押し付けて来たのは彼の方だったが、一瞬垣間見た舌を打ちたげな様子からして衝動的な慈悲だったようであるし。
新たな出会いとしてさも自宅も知らないかのように、せめて連絡先を、と食い下がった私の有能さは自賛で完結させるとして。その時は恐らく安室さんだったであろう零君は自ら不用意には名乗らず、勤め先の喫茶店の店名と住所とシフトを走り書いたメモ用紙を私に握らせ、立ち去った。
そんな経緯があって本当に傘を返しに来ただけの私は踵を翻そうとしたわけだが、安室さんは随分と優秀な店員らしく。

「せっかくですし、お茶だけでも召し上がって行かれませんか?」

これでひとつ売り上げに重ねられるわけだが、喉は乾いていたし悪い気はしない。
“降谷零”と一度は遊離できたものの、今後はもうお別れは許さないらしい。


降谷零は私の恋人だった。もう今となっては昔々の、回想も全て他人の恋物語に等しいが。
多忙を極めた身ながら偶の休日にはドライブに連れ出してくれ、沢山のレストランやバーを知りつくし、ハイヒールを履いている日には優しく導いてくれて、綺羅やかなアクセサリーを贈られたりもだってした。
誰が見ても幸せだねと評する通り、彼との日々は客観主観共に幸福で満ち、だが同時に不満は幸福と同じ場所に重ね塗るように点在していた。


お待たせしました、とテーブルに置かれたソーサー付きのティーカップ。滑らかな陶器の窪みに張る紅茶の水面に揺れる自分の影は、カップの天渕に口付けて産んだ波紋で掻き消した。

「……これ、アッサムですか?」
「よくわかりましたね。そうですよ。癖がなくて飲み易いので。なまえさん、お好きなんですか?」
「いえ、私はどちらかといえば……」
「アールグレイ、とか?」

正解だ。名を変えても尚記憶に残し続けるような情報ではないと思うが。
通されるままカウンター席に座したのはこの上ない失敗だった。時間帯故か店内に客はほとんどおらず、一対一となった安室さんは私を覗き込むようにして雑談を持ちかけてくる。

「なまえさんは恋人は?」
「今はおりませんけど」
「あぁ、よかった。僕みたいなのがうっかりお誘いして、嫉妬で殺される心配はありませんね。まぁ、別れたにも関わらず諦め悪く恋慕を向け続けている男がいても不思議はありませんけれど?」

諦めの悪いと云う男と、眼前のハニーフェイスを視覚と脳裏で重ね合わせる。
一体何を探っているのか。

「そんなまさか。確かに欲張りな人でしたけど……。それとも安室さんがそうなんですか? ご自分がそう思うから他人の事も疑ってしまう、とか」
「どうでしょう。それもあるかもしれませんが、疑いたくなるのは職業柄かもしれません。僕、探偵なんですよ」
「探偵? すごい。それなら浮気調査の時にでもお世話になろうかな……」
「えぇ、ぜひ。身辺警護なども引き受けていますから、元彼に付きまとわれるなんてことがあったら頼ってくださいね」

その元彼から書き写した遺伝子構造を持つのがこのアルバイターなのだから、自分自身を赤の他人として語る安室さんには失笑してしまう。

「人の交際相手なんてどうでもよくありません? 安室さんには関係ないんですから」
「元、でしょう」
「えぇ、厳密にはね」
「関係がないのは仰る通りですが、恥ずかしながら興味があるんです。いけませんか? ――僕では駄目でしょうか、なんて。そんなドラマみたいなことを言う男はやはりお嫌いでしょうか、なまえさんは」

何を思ってそんなことを問い、校閲までもしているのだろう、とそこで鈍ちんに思考を打ち止めるのは自惚れ屋のレッテルを頂戴したくないという意地だ。物語での鈍感な者ほど幸福というお約束に肖りたいというのもその意地には付加され、猫の乱した毛糸玉よりもこんがらがっている。
それから、零君。やはりお嫌い? なんてほぼ初対面の相手に使う言葉では無いのに幽かな襤褸を出してしまって、これでは安室透がシュガーコートになってしまう。駄目だ、エプロンを身につければあなたは安室さんそのものなのだから。

「いえ……ドラマティックなのは嫌いではないんです。でも好きというほどではなくて、だから別れたんだと思う」

さらり、とシュガーポットに詰まった透明な星屑を匙を伝せてティーカップに降らせていく。

「彼は知らなかったと思いますけど――私本当はインドア派なんですよ」

嗚呼、いけない。せっかくここにはいない人物について語るように紡ぎ始めたのに、結びは眼前の小麦色の肌の青年に差し向けてしまった。

「彼ね、誕生日に高級フレンチのお店に連れて行ってくれたんです。最後に突き返してしまったけど、かわいい指輪もくれました。その指輪、ずっと大事につけてて」

会えない夜にはドーナツホールを覗くように輪に視線をくぐしてみて、華奢な銀色の煌めきに慰めて貰ったけれど。今はもうどうしようもない寂しさが開けた弾痕に差し込んで誤魔化す花の一輪すらもなくって、自分のベッドは宇宙のような虚無感が敷き詰められている。

非誕生なんでもない日にだっていいお店に沢山連れて行って貰いましたよ。たまにしか会えないからきっと沢山優しくしてくれていたんですね。でもゲストみたいな特別扱いって実は寂しくもあるんです。当たり前みたいに一緒に入れたら、って私は思ってた。彼は特別視してくれていたんだと思う。それが嬉しくないわけないけど、でも辛かった。日常が欲しかった。少しソファでぐったりできるだけでいいの。それにそんな風に私の為に休日を潰してしまうから、隈も深くなって、肌の調子もおかしくなったりして。せっかくイケメンさんなのに。馬鹿です、あんなに賢いのに」
「その“彼”は……疲れた体に鞭打ってでもなまえさんに会いたかったんだと思いますよ。それほど愛していたんです。僕の憶測ですがね」
「会いたがってくれるのなら嬉しいですが。でも休みたくもあったはずですよ。だけど私の事が義務みたいになってしまって、身体を壊しそうで。私も私で寝かせたいはずなのに何を怖がってか言い出せないんだから」

馬鹿だ、な。

「安室さん、本当に私達、馬鹿ですよね。――ねぇ、馬鹿でしょ?」

ねぇ、れいくん。

零君、ってさ。眼で語りかけた碧眼――和人の中では見かけない、ほんのりと影を加え混ぜた淡い水晶のアリスブルー――は、なんだか場違いにも時機にも、表情より深くにあるオーラのようなもので、キスしたそうに、欲情より浅く欲している。
割った自身の唇で安室さんなのか零君なのか定かではない青年が私のこの後の予定に空白があるかを問う。彼の中にある星の数の顔のうち、誰かわからない言葉と声と高低と香りと温度が、私と約束のリボンを結んだのだ。
リボンの絡みついた指で、少女のポニーテールのように愛らしいティーカップのハンドルを持ち上げて、少し多く残っていたぬるくあまい紅茶を食道に通した。
隣にいるにも関わらず祀られでもしているような触れ方をされる度、胸に抜ける隙間風が刺々しくて冷たくて仕方が無かった。
安室透の金魚草ほどの口数の多さには及ばない、厳かな降谷零の本心が私をメルトダウンさせに襲い来るのだろう。
あの迎えの白馬のような車に私以外どんな人間を乗せたの、乗せるのと、問える権利がこの手に再び戻ってくるのだとしたら。果たして私は突き返せるだろうか。突っ撥ねるだろうか。はたき落とすだろうか。
明日の朝、自宅以外で目覚めそうな優柔不断さが空っぽのティーカップの底にひとつ転がっている。この柔弱への甘えが洗剤の泡と褐色の指に拾われてしまう。


2018/05/16

- ナノ -