短編

空想都市の夜明け前だ


食卓で頬杖を突きうつらうつらと前髪を揺らす同居人。なまえ、と呼びかける前に前髪の影に喰われた瞳が閉ざされている事に気付いてよかったと思いながら、偽名で師事する名探偵さながらの眠り方をするなまえの、その頬をひと撫でしてみる。待って起きていようとしたのだろう、自惚れではきっとない。かわいいなどと改めて思うというよりは、愛おしさが騒めくような。
愛おしいことはいいのだが、しかしながらここでは風邪を引き兼ねない。世話のかかるやつだな、と胸中零すも表情筋はきっと強張ってなどいなかった。
洗剤混じりの飛沫やら何やらから衣類を守るエプロンは紐を解いて外してやり、適当に背凭れにでも預けておく。
疲弊とはすでに親しい総身はどこかしら麻痺したらしく、疲労を発信する声も二日前から響いてこない。予想外の本日最後の仕事に奇襲を受け、起こしてしまわないように足の爪先まで神経を研ぎ澄ませてなまえを抱き上げる。
ベッドに寝かせて、着替えやらを済ませるために寝室に漏れるリビングの明かりと共に去ろうとした時。

「零、くん」

睡魔にやや呆けて、しかし淀みない声音で。呼び止められ、震えた鼓膜が潤った。
嗚呼戸籍に刻まれている実の名であるはずなのに久しく聞いていない、そんな気がする。

「おかえりなさい。帰ったんだね」
「あぁ、ただいま」

返しかけた踵を躊躇い無く戻し、なまえの前髪に触れてその流れを変えた。

「起きたのなら着替えたらいいんじゃないか?」
「えー……。このまま寝ちゃおうよ」

寝てしまいたい、ではなく。なまえの体温が移り始めた寝床に誘い込まれようとしているのは、俺の指に絡んで引き止めようとしている手で明白だ。

「晩飯、作ってくれてたんだろ。片すか食べるかしないと」
「深夜に食べるのはよくない、って。さっきテレビでやってたよ。ちゃんと明日片付けるから」
「……スーツに皺つくぞ」
「アイロン掛けるの私だし」

気遣ってくれるのならお願いを聞いて、と少々強めに裾を引かれ、ものの見事にハニーハントされた俺は朝ばたついても知らないからなとばかりの嘆息のあと、ブランケットの隙間に潜り込んだ。
ぶつくさ、お小言みたいな物言いの気遣いを不器用に言う俺は――“降谷零”は、“安室透”のようにはいかない。そろそろ広くないベッドではスペースを取るから密着する、という口実も脱ぎ捨てて、愛の向くまま抱き竦めたいのに。
あのね、と空気に切り込みが作り出され、そこから打ち明けるように切り出される。

「どうした?」

応じる俺の声は低いのか高いのか。本職での厳かな威圧感も、アルバイターの甘ったるい営業スマイルも、スリリングで挑発的な色魔めいたものも消えた今だが、緩んでいることは確かだ。

「あのね。零君、知ってますか。私の恋人はとってもすごい人なんだよ」
「へぇー?」
「降谷零っていう、かっこよくて強い人で。詳しくはあんまり教えて貰えないけど、いつもこの国のために危険なことも頑張っていて……」
「よかったじゃないか。そんな奴と付き合えて幸せ者だな」
「うん、幸せ者。でも私も他の国民と殆どの同じ様に何も功績とか知らないの。近くにいるはずなのに、何も出来ないのに、褒めてもあげられない」

表彰は昇格と、その際のお疲れという一言を上から浴びる程度。ひたすら忍ぶ自分達が公けに評価を集める真似ができないのは彼女とて承知している。

「今も何か頑張っているんでしょう? すごいね。偉いよ。でもね、それがわかるのって疲れていたり、怪我から察しているからなの。それが悲しくて。私まで痛い」

俺を吸い寄せる双眸も触れ合う指も、本当は純な賛美を歌いたがっているのだ。

「零君。私、やっぱり寂しい……かも、しれない」

健気に濁してなまえは本心を鈍色に染め遠慮がちに晒す。
旋毛を軸にふわりと渦巻く髪からは久しく感じるシャンプーの香り。対して俺はどうなのだろう。砂糖菓子? ウィスキーのアルコール? 男所帯の嫌な匂い?

「すまないといつも思ってる」

秘匿や守秘に雁字搦めにされた身では、今日はどうだったのか、程度の日常会話もままならない。おかげでコミュニケーション不足は配偶者に浮気を疑わせ、私生活をぼろぼろに崩しながらそれでも尚国を選び取る同僚や先達の姿は多く見てきた。いつ例外でいられなくなるかもわからない。
生還を果たしている現在なら、数日数週間の空白は帰還と共にシーツが乱れるほど抱き合ってもつれて埋めて修復するが、もしも二度となまえ以外鍵穴に触れる人間がいない状況になどなってしまったら、孤独な部屋のクイーンベッドに彼女を独りで置き去りにするのだ。
そうでなくとも母胎としてある程度の耐久性は女性が男性を上回り、平均寿命はやはり女性側の方が基本的に長い。性差に、リスキーな職種、どれを取っても自分の方が短命であろう予測しか立ち上がらない。彼女のためになるものなんて室外には何も無い。幾度考えた事か。
何度も、何度も、迷って、かぶりを振って、決意を緩めて、帰って、キスして、抱き合って、玄関を開けて、また迷って、何度も。何度だ。

「謝って、でも、結局何も捨てる気は無いんだ。笑ってくれて……、いや、逃げてくれたっていい。俺はそれに何も言えない」

なまえの頭蓋骨を強く抱くと、鎖骨に吐息を感じる。自分の目立つ前髪が睫毛をすり抜けて軽く目に刺さり、硝子片で貫かれてもびくともしない痛覚が今はこの程度で悲鳴をあげる。
するり、となまえの手が頬を滑っていくと表情筋がふわりと楽になる。

「零君は優しくて強いから守るべき人が近くにいたら、ちゃんと守りきるでしょう。私の時がそうだった。だから危ういって知ってるの。自分一人だけだったらこの人簡単に手放す――捧げてしまう、って思った」

だから、と繋いで。

「だめだよ」

戒める。子供に聞かせるが如く、約束を結ばせるが如く。

「ひとりになったら」

だめ、と大切な人間にばかり旅立たれる俺にもまた彼女は旅立つ事を禁じる。

「大丈夫だよ、女の方が長生きだから。私が零君を一人にすることなんてないから。だから明日じゃなくていいから帰ってきてよ」
「嗚呼、必ず帰るよ」

その宣言が、約束が、なまえの安堵を召喚する呪文が、自らを散らす事で、幾つもの顔で吐き慣れた嘘の一つに過ぎなかったと立証させてはならない。
微睡む前にこれだけは、と一度唇を味わった。どうせまた明日の朝目覚めてからも玄関先でも同じ事をするだろうに。恋人と相対すると効率や合理の文字は辞書から抜け落ちるものだ。


2018/05/14

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