短編

真夜半パレイド


湖面のように揺蕩う、花模様が編まれたレースカーテンの隙間にか細い体躯を差し込み、硝子戸の外へと攫われるように出て行く太宰さんのお姿は、瞼にのしかかる睡魔をも一瞬にして払いのけた。
慌てる脳に反して未だ眠りに半身浴中の体は、上からの過酷な命令に追いつかず、跳ね起きるというには緩慢過ぎる速度で上肢をシーツから遊離させた。掛け布団が緩やかに半裸の素肌を滑り落ちるのを、引っぺがして。素足を交互に床に乗せていき、今にも夜陰に飛翔しそうなその方を自宅のベランダに縫い止めようとする。

「ひとりに、しないでください」

たかがシーツの海への置き去りにさえ裾を摘もうとする寂しがりではない。隣で眠れない一瞬があったことへではなく、これからも隣で眠れなくなる序章の一瞬であることにだ。

「違うよ。今日は飛び降りの気分じゃない。少し口が寂しくなってしまったのだよ」

おくちが寂しい、とは。はて、と私は首を傾げる。
玲瓏に奏でる太宰さんを仰ぐと、彼が割開いた薄い唇からも、骨を連ねただけのような指で摘むシガレットからも紫煙が燻っていた。お煙草、だ。
生活感を見出させない太宰さんとは結びつかない煙たさが、今眼前で風に溶かされている。

「それより、寒くないかい?」

あとね、とてもエロティックだよ。と太宰さんは曖昧に微笑まれるものだから、はっとして自身の胸より下に眼界を転じ、そこでようやく自分で自分の目を塞ぎたくなるほどはしたない格好であることを思い出す。上下で揃えた下着の上に重ねたまじない程度のキャミソールでは、手脚の肌色は月光下に蒼白く浮き出し、もしもこのタイミングでこの部屋の窓を仰いだ通行人でもいようものなら、痴態をびらにさればら撒かれるようなものだ。
意識に止まれば途端に総身の毛穴が引き締まるなんて、人体とは調子がいい。
恥じらいと肌寒さから逃れるべく、申し訳程度に身を抱くようにして視線を遮断する。
ふぅ、と太宰さんが細めたおくちで細く深く長く息吹いてから、煙に浸していた舌でささやかな招待状を象る。

「それ着て、おいで」

太宰さんがくい、と持ち上げた顎と視線で示されたのは、床にくたばっていたご自身のトレンチコート。私の身長では引き摺ってしまいそうなくらい長い丈だけれど、どうせ安物だから、と太宰さんは私をベランダに誘い出す。
「今日は星がよく見えるね」
本当を言うと太宰さんの底無しの瞳に詰められた縮小銀河だけを食べていたかったのだけれど。いつになく無垢な眼差しがそんなにも賛美するならと私もまた首を逸らして、満天の星を揺らめく風と共に吸い込んだ。
キャンディボックスをひっくり返したような綺羅やかな星粒達が、漆黒の天鵞絨の上に道を創るかのように散っている。星が寄り合った天空のせせらぎに憧れるように巻き上がる煙は雲に触れる前にはもう力尽きてしまうだろうに、それでも登っていく。
「太宰さんが喫煙者だったの、存じませんでした」
「なまえちゃんの前で吸った事は無かったものね。うふふ、臭い消しも上手いものだろう。偶に女性から香水を頂く事があったりしてね、それを使うの」
「くすねるのは頂くの内に入りません。私のオードトワレどちらにやったんですか」
「そんなに怒らなくたっていいじゃない。ちょっと拝借しただけじゃないか」
私の体躯に見合わない異性の外套は小汚いベランダの床を舐めようとしていたけれど、悪戯なのか味方なのかもわからない風が裾を持ち上げる。
「やってみるかい?」
「何をですか?」
「煙草」
太宰さんは最後の一息を風に与える。
ベランダの淵の真下に視線を這わせながら、いえ、私は……、と口籠っていると、彼は磨り減ったシガレットの先端を潰してさっと火を奪い、万華鏡みたいな筒型携帯灰皿に押し込んでしまった。
「美味しいものなんですか?」
「そういうわけじゃあないけれど……。なんだろうね、依存とかホリックかな」
「お酒の時と同じ事仰いますね」
「大人の娯楽とはそういうものだよ」
「そういう大人のお楽しみは楽しめなきゃだめですか?」
「私としては逆の気持ちだよ。特に煙草はあまり勧めたくない。味覚や身体能力を失う事になるから……」
どうする? ことん、と首を傾げられながら引き気味に委ねられると何だか進んでみたくなってしまうのは彼の恋人の性である。
「なまえちゃんは私が一歩引くと挑む気になるね」
はいどうぞ、と差し出された箱から一本頂く。摘み出して、手順やマナーもよく知らないままひとまず眼前の長身のお手本に倣い、薄茶のフィルター部分を口へと運ぶ。鼻先に触れるのはまだ線香に似た甘ったるさだけで、流石に点火もまだの状態では嫌悪感も生まれては来なかった。
「ライターの点け方は知ってる?」
「いえ……」
「そう。ならやってあげる」
唇からあまり距離を置かない眼下で構えられたライターの、てっぺんの銀色が、星夜を反射する。
「手で周りを覆って風を避けて。こんな風に」
少し屈み私と目線の高さを近づけた太宰さんはご自分でも風避けをしてしてみせる。私もまた自分の手を傘にした。ここでいつものご冗談をぶちかまされても手順として鵜呑みにしてしまいそうなので恐ろしくもある。
「あとちょっと息を吸ってくれるかい」戦々恐々、シガレットを通した酸素をほんの少々口腔に取り込んだ。空気が通り抜けたところで、指がライターを押し込み、着火。青に縁取られたこども炎をこんなにも間近で見たことなど今までに一度もない。灯されると、熱が頬に当たる。着火の折の一息が今になって、けほ、と咳き込ませた。こんな目と鼻の先で燃やされて、おまけに煙を肺に突っ込まれて、どうしてこの方はあんなにも涼しい顔を保っていられるのだろう。
「嗚呼さっきのは吐き出してしまわなきゃ。ごめんね、気が回らずに」
「い、いえ……」
子供の逆上がりでも見守るように大層微笑ましげにベランダの柵に寄りかかる太宰さん。私は再び喫煙に挑んでみるけれど、やはり美味でもなんでもない上、噎せるばかりだ。咳をするに当たり、手に持ち替えてしまった煙草はほとんど点火直後だというのに太宰さんに奪われてしまった。
「初めてなのだし、体に良いものでもないし、無理はしない方がいい」
正直すっかり参っていたので諦める機会を頂けたのは有り難かった。
「すみません、無駄にして」
「いいよ、私が吸ってしまうから」
「えっ……それは衛生的によろしくないのでは」
「そうじゃないでしょ、関節なんたらでしょ。もう少し恥じらって欲しいなぁ。というか、さっきまでとても生物的で不衛生なことをしていたのに、今更でもあるでしょう」
まぁいいけれど、と美しい指が万華鏡型の灰皿で真新しいこども炎を滅する。
「なまえちゃんにまだ試したい気持ちはあるのなら幾らでもわけてあげる」
私の頬を撫でた指を顎の方まで這わせて行き、掬い取ってご自分を見上げさせるのがこの麗しい方のキスの前兆だとよく覚えている。私は餌を与えられるペンギンみたいに極力爪先立ちで首まで伸ばさなければならないし、太宰さんも太宰さんで細長い躰を低めなければならないから、こんな行為には互いを痛めつける要素しか詰まっていないはずなのに結局今夜もこうして重ね合わせてしまっているのだから人間は愚かだ。
ねっとり、と全体を擦り合わせるように。喉の奥まで煙の残滓を行き届かせる。
嗚呼、苦い。息苦しい。舌の一番喉に近い付け根部分に子供の頃の粉薬よりも酷いものをぶち撒けられているみたいだ。
眉の形を歪める表情筋に力が籠ったところで煙たいキスは幕引きとなる。
「どうだい」
「これだけじゃあ、よくわかりません」
わからないのですし、だからもっと、とループタイの無い襟元を引っ張り、逃げないでくださいとお願いしてみる。彼の仰る酒と似通った依存や中毒とは、私にとってのこのキスやその中での息苦しさのことかしら。


2018/04/13

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