短編

浴槽メルティダウナー


我が社及び我が家が誇る唐変木が浴槽に葡萄酒でもぶちまけたのかと思ったが、浴室に脳天を突き上げるほど強く香っているのは発酵した糖の甘やかさなどではなく、鉄臭であった。
夢に見たのはミルクバスならぬアルコールバスではなく、相変わらず冥土だったらしい。
リストカットに挑んでいたと思わしき太宰さんが細い体の節々を濡らして跪いていらっしゃった。絶え間なく降り続ける人口雨に薄い肩を晒してシャツの青色を水滴模様に濃ゆめ、真新しい傷を拵えた腕はだんらりと湯船に浸されている。水を張ったバスタブ内は非常に血みどろ。海中で蛸が墨を吐き出したように、もしくはもくもくと空を目指す紫煙のように、血潮が吐き出され続けていた。源泉である肌の裂け目は水中に閉じ込められることで酸素から遠のけられ、鮮血は流動性を失わないまま。彼の体液でなければすぐにでもこの自殺事件現場から眼界を転じたい。
私は靴下を履いたままで浴室の濡れた床へ踏み込み、蛇口に手をかける。きゅう、と締め上げれば雨上がりのバスルーム。
「あぁ……、なまえちゃん……」
「太宰さん、ぎょっとさせないでください」
「やっぱりわたし死んでいないみたい。はぁ、なまえちゃんのおどろいたかお、わたし好きだからこうして見れてうれしいけれど、だから生きててもまぁ悪かない気分なんだけど、すごくかすんでる。残念」
吸血鬼のように蒼白したお顔と、上手く回らない滑舌と饒舌さ。
「上がったら目薬を点して差し上げますから。お夕飯はレバーですね」
浴槽から骨細な腕を引き上げる。カッターナイフ製の裂け口はそこまで派手なものではなかったが、やや皮膚が捲れ上がり裏側が伺えてしまうのは、どうも駄目だ。他人にも関わらず心拍数を数えられるほど、ボリュームが上がっているようで、それでいて浅い。まるで心臓が腕のところに移り住んだかのように、腕を発信源に爆音が滴り落ちていく。
床に捨て置かれていた使用済みの包帯を手に取り、それを太宰さんに押し付けて応急処置の止血を試みる。
「ねぇ、なまえちゃん。とってもいたい」
「なら横着して切るのは駄目ですよ」
「そうだね。また考え直そう。私のこの聡明な頭なら人より可能性は多く見つけ出せるのだから……」
桁外れの生命力が可能性を潰して結局はどっこいどっこいですけれどね。
足裏の布生地が吸水を始め、徐々に熱が奪われていくが、その中でも足裏のある一点だけが嫌に冷ややかなことに気がつき、足裏をひっくり返して見ると案の定穴が空いていた。無様な私の靴下の有り様を太宰さんも横目に捉えられたらしく、脱力的な声音でこう仰る。
「おはよう靴下だね」
果たして彼はお召し物相手にご挨拶なさるようなメルヘンティックな方だったかしら、そうだったかしら。
私はきょとんとしながら、ぽーいっ、と洗濯籠に放り込んだ自身の靴下の描く放物線に視線を馳せた。
「どうしたんですか。おはよう、って」
「あれ、言わないかい? そっか、東北弁か。穴あき靴下のことをそうも言うの」
太宰さんほどの麗人でも履き潰すのだなと零れた感想にどこか神聖視している自分を見つけ出して。
かちゃ、と薄い金属音が空間の下層で反響した。ベルトとループタイがふたつ合わせられ、木乃伊の手を通して曇り硝子戸の隙間から投げ捨てられたので、視線を投げやれば太宰さんがするすると服をお脱ぎになっていらした。縦縞のシャツもズボンも下着も取り払ってしまわれるとまとめて私に押し付けてくる。脱がれたものを洗濯籠の貝塚に重ねようと踵を返しかけた時、踝に枷を嵌められた――脚の鈍い感覚がそのように錯覚しただけで、本当はそれは太宰さんの指が絡みついたのであり、それがあまりに骨の硬さそのままなものだから枷かアンクレットかのように思ってしまったのだ。

「流して欲しいな」

私を仰ぎ、ことん、と首を傾げておいでの美青年を迷わず選んだ私には、彼の温度が残留していたとはいえ彼を前にしては衣類などはもう無価値に等しく、先ほどのループタイ達と同様に、不透明な硝子の外へと放り棄てた。
自分のブラウスを脱ぐ間に浴槽の血液と冷水の入り乱れたグロテスクな産物を抜き、改めてぬるま湯で満たす。骨を包む筋肉はおろか脂質すら満足に持たない、ほとんど骨と皮だけの太宰さんはあまり熱い湯には耐えられないそうなのだ。くるくると回る換気扇が腕を振るい始めたのか、私の鼻がひん曲がってしまったのか、鉄臭は意識にすら止まらなくなっていた。
下着を指で摘んで棄て、硝子戸を閉めたところで椅子に座した太宰さんにシャワーを当てる。肩甲骨を濡らしていると漆黒の襟足も水を孕んで重たくなり毛流れもおとなしくなる。
「ついでに頭も洗ってしまいましょうか」
「ん、今日はいいよ」
「わかりました」
「でも身体は洗ってくれるかい」
「……色魔」
「わかっているならいいじゃない」
「あの、ところで腕以外の包帯は……」
「実はね、包帯が私の本体なんだ。君の愛してくれるこの肉体は抜け殻でしかないのだよ」
左様で、と水流同様に流しつつ、シャワーヘッドは立て掛けて浴槽の水嵩を増し続けさせる。
そして私は固形石鹸を手に取った。この家には私のシャンプーとコンディショナーと洗顔フォームと、共有の石鹸程度しか置かれていない。太宰さんの若くして艶めかない蓬髪は総身くまなく石鹸一つで乱雑に済ませるところから構築されたのだろう。時折私のシャンプーで洗って差し上げるし、彼もきちんとした製品の出来にか私との戯れにかどちらにせよ喜ばれるのだが、平素は誠に物臭で無関心なのだ。
分厚く立てた泡を色素も厚みも薄い皮膚上に引き延ばしていると、太宰さんがひと掬い奪って私のデコルテにそれを乗せる。

「洗ってあげる」

洗浄なんて建前で、彼は脂肪組織や曲線を描くところばかり執拗に触れてくるので私はひたすらに恥ずかしく気が気ではなかった。くるくる、と体のあちこちに泡で円を描いていく。
「流さなくていいよ。このまま湯船に浸かってしまおう。お行儀は悪いがね」
連れられて、とぷり、と身を浸して。しゅわり、と炭酸のように全身にまとわりついていた泡達が溶けゆく音を楽しむ。
私は太宰さんの生白い腕にやんわりと閉じ込められていた。浴槽の内壁から削り落とされた水泡が水中を跳ね回り、肌にぶつかる。背筋を不躾に撫で上げる泡の群れの、そのどさくさに紛れ、愛撫を仕掛ける悪戯な指の存在。指の持つ硬さ、細さ、温度、指紋のざらつき、水分を孕み寄った皺。水泡とは異なり、また泡など遥かに上回る情報量の多さが一瞬で人の指と認識を与える。
「上がったらまた化粧水塗りましょうか」
「えー」
「……? この前は随分お気に召していましたよね。私がやって差し上げたら、ですが」
「違う違う、そういうことではなくてだね」
だから、要するに、と引き延ばし、やがて内緒話のように密やかに色めいて打ち明けられる。

「上がったらすぐにお布団行きたいのだよ」

欲の在り処はすぐそこだった。下肢を蕩けさせるのは嫌いじゃないからこそ視線を千切る。


2018/04/05

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