短編

がらんどうまなこ


一度くらいはでろでろに呑んだくれてみたいものだと柔弱さを無い物強請りしつつも、結局酒屋の秒針が鳴く毎に意識は理性に触れていく。ここまで時間を気にかけるのも私かシンデレラ姫くらいなものだろう。やはり愛おしくて堪らないあの子を独り家においてくるのは忍びなく、ミルクティーブラウンの裾を床擦れ擦れで翻す。脳裏に創り上げた彼女は虚像に過ぎないが、どんな過激な重火器を用いようとも私はなまえちゃんには勝てないのだ。とぷり、と胃にしこたま注ぎ込んだ安価の日本酒が体内で波打ったような気がした。
自宅の窓に電光が灯されている光景には未だ不慣れで、逐一幽かに瞳孔を開かせてしまう。その後には決まって唇をだらんと両はしを指でつまんだ糸のように緩めてしまうけれど。
物臭の甘ったれは呼び鈴を鳴らしてなまえちゃんを玄関先に召喚した。道化にばかり秀でているとはいえ、誇れる私の演技力を以ってすれば面倒な酔っ払いの演技もお茶の子さいさい。血流を操り赤らめた顔を繕い、覚束ない千鳥足を真似て出迎えてくれたなまえちゃんの胸にやたら細長い体躯を埋めた。わぁ、と間が抜けていて愛らしい悲鳴を漏らして、私の重みを支えきれずにぺたりと床に腰を落っことしたなまえちゃんの、その肩口で、このまま泣いてしまいたかったのに涙は枯渇、在庫無し。もう死にたい。
量感のある私の黒髪の、鬢と襟足の目立たない境目に慰めの摩りを与えていた彼女の手がやがてトレンチコートに掛けられる。
「このまま寝てしまいたいものだねぇ」
「皺になってしまいます」
「いいじゃないか」
「駄目です。お客様商売でしょう」
しっかり者だ。私なんぞよりよっぽどに。
剥かれていくコートが皺や波の形状を変貌させる度に外界の香りが沸き立った。なまえちゃんのなだらかな胸に、聖母性に抱擁されて少しずつ身軽にされていく。ループタイは綻んで、ことり、と落とされたイミテーションジュエルの蒼玉が床とぶつかり音を立てる。ベストが回収され、ドレスシャツの前が割り開かれ。さぁ、着替えをお持ちしますね、と腰を浮かせる気の利くお馬鹿ちゃんの手首を頭上で括り、床に縫い止めてしまった。
え……、と。私の下で私の影に貪られるなまえちゃんが鳩が豆鉄砲を食ったような面持ちで次第に青ざめていくのは、私がいつもの調子に戻って道化とは明かさず、ましてや“なぁに。元気だよ、私は。ほらこの通りぴんぴんしている”とも言わず、伽藍堂まなこの酔人のままだから。得体の知れない暗い眼差しに犯されるのを彼女は危惧して焦燥している。
指先が億劫がるのでブラウスのボタンは放置して、スカートに仕舞われていた裾を引っ張り出して首元まで捲り上げた。背の素肌に床の冷ややかさは毒のように染みたのか、ひゃ、と細い声はしたけれど。腹部の肌色だけでは満ち足りず、つぅ、と脾の曲線をなぞりながら肩甲骨まで指の腹を這わせ、留め具を弾く。官能的に、浮いた下着をずり上げて蠱惑する部分だけを晒させ、ついでに熱の篭る自分の衣服も彼方へ棄てて。邪魔な鬢の流れを耳裏へ変え、片丘の飾りを唇で包んだ。ちょっとしたキスのつもりでももう我慢ならなかったのか、なまえちゃんが鳴いてしまうので、口を相手にしないキスは一度取りやめ、代わりに彼女の口元に人差し指を押し当てた。内緒、とでも伝えるように。

「あんまり大きな声を出すと私達の秘め事を知られてしまうよ」

戒める。

そこからは随分と手酷い撫ぜ方をしていたように思う。
にも関わらず、私への愛情を風化させる気配すらないなまえちゃんはスカートに爪を引っ掛けるところまで来ても「お、お布団」とお間抜けな単語を口にする。「敷いたんですよ……?」その嘆きを聞いて、多分私は一瞬だけ眉を迷い子のような形状にしてしまった。それを皮膚の感覚と、彼女の瞳の揺らめきから悟る。
「ごめんね。なまえちゃん」
めそめそとしたキスをそこらじゅうに吐き散らして全部をなあなあに、あやふやに。裏側にもキスをと横を向かせると視界に広がる背中にはフローリングの目の跡が刻まれてしまって痛々しい。内出血の判子でそれらも揉み消しつつ、誤魔化しつつ、再び自分を仰がせた時にはなまえちゃんの背中と床の隙間に腕を差し込んで躰を抱くようにし、負荷を極力取り除いてやり、それから始めて唇をぴたりと重ね合わせた。
押し付けられたかと思えばきつく抱き潰されて、最後には昂ぶる熱を叩き付けられて、深夜に覚悟もままならないまま犯されて、布団の外でのことに躰の節々を痛ませて、彼女も散々だったろうに、それなのに彼女は苦々しく、そして甘ったるく笑むだけで、私に着せ直した襟を正す。何処か侘しい皺付きのブラウスの背中を私は抱き寄せて、そうしてからっぽの胸に水を注ぐ。
このまま消えて亡くなるのも気分ではないし、最初からいない人間なら良かったのに。
けれども死にたい、って願望するのに文脈は要らないと思い直す。


2018/04/03

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