短編

望遠鏡はもろくて冷たい


俺は医務室を訪れていた。劈くような消毒液に鼻を好き勝手やられるのは相変わらず好ましく感じられないなどと頭の片隅で転がして。
しゃらり、と突然カーテンを開いても中にいたベッドの住人は微動だにしなかった。なまえ、と声を掛けたところで彼女はきっと俺に気が付きもしない。
なまえの双眸は影に貪られながらもかろうじて開かれている。が、虚空に注がれ続ける視線は何ともぶつからず、無論俺とも交差しない。
「なまえ、俺だ。来たぜ」
語り掛け続ける言葉の全てが無駄撃ちに終わるのは知っていた。外傷はほとんど治癒しており、欠損も無く、耳も顔の横にくっ付いているというのに何かに遮断されたように俺の声音は彼女にはまるで届かず、姿も瞳に写しては貰えない。
任務から帰還した彼女の背後は霧がかけられ、原因も何も判然としないままただなまえが盲者となってしまったという事実だけが、なまえの肉体を借りてこの場に存在していた。
そっ、と肩に触れて彼女の世界と自分達の世界との結合を試みる。大袈裟なまでに肩を跳ねさせた、暗闇の内側のなまえにとって、俺はまだ敵か味方かもわからない未知そのものなのだと思い知らされ、奥歯で苦味を噛み潰した。
ゆうるりとした所作で首が捻られ、なまえの顔がこちらを振り返る。重たげな瞼の瞳が俺の鳩尾辺りを射り、「どなたですか」と拙い音程の取り方で問われる。膝の上で縮こまっているなまえの掌を拝借し、中也、と指先と文字で名乗った。戦々恐々というような様子の、いっそ可哀想な程に恐縮し切った腕が俺の方に伸びて来て、するりと頬の輪郭からごつい首と肩までの線をひと撫でしていった。左右非対称なテラコッタ髪に差し込まれ、少々痩せたように思える指先に弄ばれる。暫し好きに触れさせていると最終的に帽子のブリムにぶつかり、そこで確かに俺であると納得出来たのか、そのまま旋毛を抱き寄せられた。
「……中也さん」
「おう」
なまえの耳朶を前に短く応じると、吐息がこそばゆかったのか肩が捩られる。
「中也さん、待っていました」
「本当なら昨日も顔出せるはずだったんだが。すまねぇな、随分と待たせちまって。こんなとこじゃ空気も悪りぃし、寂しいだろ」
可哀想に――。唇に乗せたところで誰にも知られずに済む同情だったが、引き金は引かなかった。そもそも応じた事すら無意義である。
抱擁は嬉しくとも腰を曲げた不安定な体勢が少々辛くもあったので、離してほしいと言うような意味合いでなまえの肩をぽふりと叩き解放を強請る。それをこいつは愛情表現か何かに取り違えたらしく、俺の首を抱く力が強まったもので、うぉ……と戦闘時のように喉が震えた。引き剥がすのも忍びない、柔軟さと身体能力を今使わずにいつ使うのだ、と精神に鞭を打ち込み、俺は背中を抱き返した。
気まぐれに唇を奪ってみればなまえは、ぽすぽす胸板を叩くという愛らしい反応を見せてくれた。愛らしい事はいいのだが、中々の豪腕と鉄拳は俺の胸囲に沈み咳き込ませる。
折り畳まれていた椅子に気と視線を馳せ、汚れ切った異端な力でベッドサイドに引き寄せる。空気圧に重みを与えて器用に押し込んだり解いたりをして開かせた。軋む金属が心許ない安物椅子に背中を預け、脚を組む。
「そういや樋口が、」
途中まで口に仕掛け、表情を一切揺らがさないでにこにこと笑んでいるなまえに、しまった、とその手を取った。ひぐちがよろしくと伝えてくれと、と触覚に言伝。少し間を置き、画数を減らした文字から汲み取った彼女は瞳を輝かせ、こっくりをする。
要件といえば以上だったが、必ずしも何かなくてはならないわけではない、という特権の札を切り、するり、と帰って行こうとするなまえの手を握り引き留めた。
「何かお話ししてくださいませんか」
なまえがそうして俺と世界を繋いでおきたがる気持ちはよく解せる。清潔な空間でこいつを孤立させるということは、即ちなまえの中から俺が立ち去ったということだ。こいつのまぶうらに刻ませるため、現に俺は握った手を手持ち無沙汰に愛でている――ちょっかいをかけているともいう――。
愛しの姫君のご所望通り、俺はあれやこれや物語る。しかしそうしている折にふと思ってしまうのだ。果たして虚しくはないのだろうかと、他人の幸福の定義に自分の物差しを押し当てるようなことを。しかし考えずにはいられない。
「こうして触れて頂いていると振動が伝わってくるんです。声を感じるんです」
憶測状の虚無感を杞憂に塗り変えてぶち壊すのはなまえの得意分野だった。
「ねぇ、また抱き締めて。鎖骨のところにおでこを当てるともっとよく響くんですよ。ご存知でしたか?」
椅子を引いてマットレスに座点を近づけると、ずず、と床を削るような音が鼓膜を啄ばむ。なまえの肩を抱き寄せ、自身の肩口を枕にさせるような格好にさせ、「これでいいか?」と意識的に躰や骨を振動させた。ドレスシャツのボタンを閉じ切らない崩した着方は俺の細やかなドレスコードへの反抗心だが、それでなまえが触覚的な肉声を拾い易くなるのだからいい偶然の産物だ。
「あっ……!?」となまえが素っ頓狂な声を上げた。突然全身に浴びせられた浮遊感に戸惑っているのだ。それもそのはず、他でも無い俺が彼女をひょいと横抱きにしたわけだから。自負する豪腕では異能で質量をどうこうして横着するまでも無い。姫抱きのまま折り畳み椅子に座り直したので、ラブシーンさながらの向かい合わせで座すようにはならなかったのが唯一の失敗だったが。
「な、何なさったんですか!?」
それに俺は指で答える。手前抱っこして椅子に座った、と。壊れてしまいます、となまえも俺の掌に文字を連ねて応じてきたので、異能、と一言だけ書いておいた。
俺の顎に当てられていた頭が無駄遣いと言わんばかりに嘆息をしたので、ははは、と喉仏を震わせた。わかりやすくむっとした表情ながら肩口で安らいでいるなまえを躰をゆらゆらとさせて軽くあやしてみる。
石鹸の水泡が香る髪に誘われ、頬を擦り寄せた。
「私の耳にも中也さんの声、沢山聞かせてください。耳が千切れたみたいに扱われるのは可哀想でしょう?」
ね、と抱くばかりで首無しも同然の俺を太陽のように仰いで唇を綻ばせて。
なまえの闇の中に俺の姿がないのをいい事に、俺は一瞬表情を歪ませてしまった。“可哀想”の孕む想いの重量の異なりにである。
「嗚呼、勿論だ。何だって言うさ」
するりと顎の輪郭から頬に掛けてを包まれたので、平常らしさを繕う。
存在を与えるというよりも押し付けるように口付けた。
「愛してる――」
これは、それさえ紡げば大抵はどうにでもなる魔法の呪文で、寄りかかる場所で、自らを判子のように押し付ける術である。打算を光らせた目で息を切り詰めるなまえを見下ろしてみる。だが失った二覚だけはどうにもならない。
「中也さん、好きです」
いつまでだ?
不変じゃ無いってのならずっと闇の檻で、枷をつけられていろよ。
「ずっと……」
嘘を紡がなくて正解だった。
光を反射しない役立たずの目玉を見ては、こいつの胸が幸福で満ちるようにとしか祈っていない。
早くそんな真っ暗闇なんぞ抜け出して俺を真に見つめてくれ。


2018/03/29

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※以下、没ネタです。
※寝取られ要素が御座います。


鼓膜を引っ掻いた獣の喚きらしき声が、現実のものであるかも何により生じたものかも最初は定かではなかった。しかし数歩歩んだ頃には認識が変わっていた。発信源が医務室だったのだ。
眼球に飛びついた寝具の上の光景を前に、指先が熱を逃がしているのか背骨が熱せられているのかもわからない。ただ体温の急激な変化だけを感じていた。
なまえは、肢体に絡みつく半裸の獣に弄ばれていた。
利き足に踏まれている床が半径数十センチメートルに渡って浅く陥没する。よもやこの歳になってまで激昂しようとは。

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