短編

いびつにいびつを重ねたら


※幼馴染シリーズ『思夏期

「大丈夫ですか? もう少しですから頑張りましょ……?」
ぐわん、ぐわぁん、とゆらゆらする脳の核と身体の芯。俺の肩を支えて至近距離から呼びかけ続ける、なまえのものと思わしき声が遠のいたり近付いたりを延々と繰り返す。
ほんのいっときの快楽と無心の代償に召喚された不調、不快感。体内を渦巻くアルコールが誘発するのは酷い目眩と吐き気だった。
一度は抱かれた野郎に肩を貸せるなど、ましてや家まで送り届けるなど、幾ら上司で幼馴染とはいえ吹っ切れすぎではないか、と一度抱いた野郎は思う。まぁ上司で幼馴染、それが全てなのだろうが。
腕を絡められているとどうしようもなく擽り回される、鼻腔に親しんだなまえの香りを肺に入れると途端に暴れ狂っていた不調が、すん、と大人しくなってしまうのに気づいて仕舞えば、私物とは言え恋慕には呆れ返るばかりだ。
解錠直後、手洗いに向かう。
ひとり籠城を決め込む前になまえが手洗いのドアを開けてしまったのでそれは叶わなかった。
「入って、来んな……っ」
「今更じゃないですか。気にしませんから。ね? 楽になった方がいいでしょう」
先程まで靴すら脱がずに帰路に着こうとしていたろうに俺が手洗いへ進むのを見るや否や追ってきやがって、こういう局面においてだけ幼馴染ぶるのが気に食わない。
見るな。必要無い。いらない。見るな。見るな。
噛み締めていたはずの俺の歯をあっさりと開かせ、上顎をひと撫でしたなまえの指。口腔をいじくり回される。
腸から登り詰める酸いものが喉を焼く――が、しかし。俺は吐き戻すのを身体に対して許さなかった。一度は胃袋を通過した内容物を再び嚥下し、戒める。明らかな我慢を決め込む様になまえが睫毛を羽ばたかせた。
「……よろしいんですか」
「……っ、あぁ、どうせすぐ治る」
その時、確かになまえは翼を折り畳むように俺を抱き竦めていた。

吐き気の波が引いたかと思えば次に襲い来るのは喉の渇きで、振り回されっぷりに目眩を再発しそうな程で、全くもって忙しないことこの上ない。軽いトラウマを患ったように暫くは何も胃に突っ込みたくはなかったが、それまでに大分発汗していたのでなまえに水を差し出されると突っぱね損ねてしまう。
元々はすぐに立ち去ろうとしていたとはいえ、俺の体内がずたぼろだとわかると甲斐甲斐しく世話を焼き始めるあたり、なまえには危機意識の大幅な欠落が見られる。絶不調の昔馴染みに対しては貞操観念が危ういのか、はたまた無駄に反逆心を持てないが故の自棄なのか。もしも前者であったとしたら、などと軽率に思案し始めるから苛立ちが募り出す。絶不調の酔っ払いならば獣に豹変する事もない、とか。浅はかにもその程度の認識なのだろう。嗚呼、本当にそんな認識しか持っていなさそうだ。
威厳だとか、そういう名前を持った糸だか手綱だかが引き千切られた。
ソファに押し倒す形で、俺はなまえと共に倒れ込む。己の真下に引きずり込んで。スカートに差し込まれていたブラウスの裾を引っ張り出し、顔を出した臍を人撫でする。緒の名残りで皮膚一枚を隔てただけのそこは刺激に耐性を持たない。だから狙いを定めて見たものの、だがすぐに触れ合いも焦ったくなり、胸元の前立てを力任せに引き千切った。弾けた鈕が床を転がるのをなまえは横目に追いかけるが、下着をずり下げられると仰天して胸元を見下ろし、次いで俺を見上げる。揺れるまなこに縋りの水気を見た気もしたが俺は構わず牙を剥いた。首の付け根を強めに噛むと身をくねらせて逃げ出そうとするので腰を抱き、脚の間に膝を差し込む。舌でも撫でて遺伝子を押し付け、今度はぢう、と吸い付いて痕を残す。尚も貪欲に、小さい悲鳴を上げる度に痙攣する喉を甘噛みした。きつく瞑目して反り返るのが扇情的で元よりなかったやめる慈悲を生ませない。弓なりになり浮き上がる裸の双丘に自分の胸板を押し付けて重しとする。その後も肩、鎖骨、胸に印を刻んでいく俺は黒のチョーカーも相まってさながら犬畜生だったろうが。
スカートと下着をずり下げて骨盤を晒した時、なまえの無表情にぶん殴られたような思いだった。再び躰を掌握されそうになっているというのに、それを前に怖気付く様子もなく甘受しようとしているなまえに、俺の方に躊躇が染み出す。
「……んで何も言わねぇんだよ」
これでは怖気付いたのが俺みたいな事になる。
葡萄酒は好むが涙腺を緩めて威厳も全部無くしてしまうアルコールの特性だけは心底憎たらしい。
「なぁ……? 少しは否定か拒否でもしろ」
だん、と音を立ててなまえの耳の横に掌を叩きつけると睫毛が震える。刹那、こいつが刮目をした。理由など単純明快、こいつにとって流した覚えのない涙滴がこいつの頬を流れていったからだ。それは俺が落とした一粒だった。
ゆうるり、と。持ち上げられたそいつの指先が襟足に差し込まれ、そうっと撫で付けられながら頭を抱き寄せられる。
「大丈夫ですか」
「別に。酔ってねぇ……」
なまえの肩口の素肌に零すのは虚勢だった。
「なら、きっとお疲れなんです」
酩酊を否定すればならそうなのでしょうねと頷くイエスマンは振り払ったつもりだったが、今は嫌いなご機嫌取りに救われていた。
ここまでくれば新たに一つ恥を重ねる程度造作も無い、このまま年甲斐も無く女の腕の中で号泣してしまいたかった。それでも涙はこれ以上望めそうもなかった。
首筋に埋めたまま頭の向きを変え、なまえの瞳を伺うと、彼女は気付き眼玉を転がしてこちらを見遣る。すぐに俺はそっぽを向いたが、代わりというのはまた違うがそれまで鼻先を埋めていた場所に軽いキスを落とした。今度は舐めも噛みもせずに、ただそれだけを。
「なぁ、いいか」
つつ、と下唇をなぞれば場所をそこに変えて同じ事をしたいという意思は伝わる。
「はい」
許された唇を奪った。細胞の一つ一つまでもを一体化させるために押し付け、密着度を極限まで高める。呼吸を挟んでからは上唇を二、三度と吸うように啄ばんだ。
一端距離を置き、瞳を覗き込む。膜が揺れるくらいの潤いに誘われ、再び唇を重ね合わせた。ノックをするように舌先で前歯を突いて開口を促し、絡ませる。ゆるゆると絡み付いて来たなまえのものを足りないとばかりにこちらから引きずり出し、この頃にはもう頭の両脇に突いていた手をなまえの後頭部に回して少し浮いてしまうほどまで抱き寄せ、喰らおうとしていた。
肺呼吸の生物になんぞ生まれたくはなかったとすら考えながら。
「手前は好きでもねぇ奴ともこれもこの先も出来んだもんな」
「中也さんもでしょう。私だけが悪いみたいに仰いますけれど」
「手前が悪りぃ。違う、って言えよ。嘘でいい。――俺だけだろ? このまま俺のもんになれ。今夜だけでも」
がり、と柔肌に歯の先端を差し込んだ。
「せめて嫌ってくれ」
八つ当たりのように握り潰すように、握力を強く込めて片丘を引っ掴み、突起を摘まみ上げる。指を沈めた通りに歪に形状を変えて行く脂肪組織は痛々しく弄ばれる。芽を口で痛ぶろうとした時だった。
「無理しなくていいんです」
するり、と頬を慈しんでいったそいつの手が俺から全部奪ってしまった。愛撫の皮を被った痛め付けを打ち止め、幼子のようにキスをせがんでいた。

***

俯せで枕に鼻先を押し込んだ状態で覚醒する。乾いた角膜に痛みにも似たものを感じつつ、寝室の床に置かれた衣類を見つけるとそこに焦点を定めた。紛れも無い俺の私物であるベストや上着類は雑ながら畳まれてはあったので昨夜脱ぎ捨てた訳では無さそうだ。正装のまま寝床に潜り込んだ割には寝苦しさを感じなかったと思えばやはり、ベルト、チョーカー、クロスタイ、それらも衣類の周辺に点在している。きっちりと配置するまで気力が続かなかったのか、などと考えた時視界の隅に物騒なものを発見した。――人の脚である。
仰天して飛び起きると、全体像が見えてくる。脚は腰に繋がり、腰は胴体とくっついており――どういうわけかブラウスの胸元が肌蹴ていた――、首が肩と頭部とを連結しており、目立つ損傷の無い
ひとまずばらばら死体や切断された身体部位などでは無かったことに安堵を胸中に広げ、「おい、なまえ。起きろ」静やかに健やかに人の寝室で図々しく今も尚瞑目しているそいつに、顔の側にしゃがんで呼び掛ける。
「……、中也さん。お目覚めですか。おはようございます」
「嗚呼。はよ。なんだって手前俺ん家にいる?」
「え……、覚えていらっしゃりませんか? 酷く酔っていらっしゃいましたので、私が送ったんです」
「そこで帰れよ」
「貴方が返してくださらなかったんじゃありませんか」
「責任転嫁して悪かった。覚えちゃ無いが。取り敢えず手前はブラウスの前締めろ」
「中也さんが破ったんですけど」
鉄球に後頭部を強打されでもしたかのような絶句に襲われる。
「でも結果的には何もございませんでしたから」
肩甲骨に労わりの摩りを加えるなまえは緩慢に上肢を床から引き剥がす。起き上がる動作によって揺らめいたブラウスの裾は広がり、俺の前に晒す肌色の面積が広まる。腰の曲線の一部迄もが伺えたので俺は眼に突き刺される形で嫌でも知る事となった。何も無くなど無かったことを。肌に散らばる、鬱血痕と噛み跡の数々。それならばブラウスの鈕が飛び散ったり、糸が飛び出ていたりする有様も納得が行く。俺がこいつに強姦、もしくは、こいつの何も無かったという発言を信じるのなら、それ紛いの行為に及ぼうとした事によるものなのだろう。
「……すまん」
決まりの悪さから、洋服箪笥から引っ張り出した適当なスーツベストを押し付けた。
「男物だから合わないだろうが着とけ」
言われるがままその場で袖を通したなまえが一言。
「いえ、これ以上無い位ぴったりみたいです」
「……………………」
「あっ、すみません。勘違いでした。嗚呼、とっても緩いなー! ぶっかぶかー!」
パワーハラスメントが自由意志の欠落したイエスマンを増産してしまった。


居間のソファ付近でなまえのものと思わしき見慣れぬボタンを幾つか発見し、壁に拳を叩きつけたい衝動に駆られるも、堪え抜く。
開いた食器棚からマグカップを選び取り、迷ってもう一人分余分に取り出して問った。
「いるか?」
「頂きます。……え、私が淹れますよ、恐れ多い……」
幹部にやらせるだなんて、と。すたすた、と俺を追い越して前に出て来るなまえにコーヒーメイカーの操作権を譲り渡す。しかし、待てよ確かこいつは……、と開いた蓋から記憶が生き返ったと同時に、案の定なまえの困り顔が飛び込んで来た。ボタンの一つに触れかけ、あっているのかしらと首を傾げ、指を離し、でもこれだよね、とまた同じそれに指を置き、迷い……。同じ事を何度も何度も繰り返していた。
「お前それ系ほんっとだめだよな」
「な、慣れていないからです」
「そうかァ? つぅか、まじで普段どうしてんだよ、炊飯器使えてるか?」
「…………死闘…………」
ほらな、という言葉の軽さに反した深い嘆息を俺はしてしまった。こいつに任せるのは諦めて、自らの指先を機械に押し当てる。
「すみません」
「こっちとしちゃあ破壊された方が堪んねえよ。割と大事に使ってんだぜ?」

「――中也君」水面を破る勢いで急降下した声音のトーンで、場の空気が攫われ、敬称は変えられており。一体どこに神経を向ければよかったのか。

「私で構わないのでしたら本当にお付き合い致しませんか」

とんでもない発言に脳味噌が凍結する。伴って、神経を伝わりかけていたコーヒーメイカーのスイッチを押すという指示もまた途中でストップし、マグ内の水位はどんどんと上昇していきやがて水面が膨らみ出した。すんでのところで止め、危うい表面張力状態だけで済んだものの……。というかこいつ今なんつった。
「……はっ、笑わしてくれんな。お前俺を好きってわけでもねえだろうが」
「あら。そういうのお気になさるんですね」
「一方通行にこっちばっか追っかけてんのとかみっともねえだろ」
「最初から純愛でも何でも無かったじゃないですか。それともお友達にでもなりますか?」
「振っておいて友達でいましょ〜とかほざく女が一番嫌いだ」
「そうですよね。私も友人は絶対に無理だと思いますもの。ですから」
「だから、って? 幾ら何でも話飛び過ぎだろ」
「どうせお互い逃げ道でしょう」
返答に悩んだ口は珈琲で誤魔化したはいいが。どう出ればいい。異能を行使し、壁を床の延長線上の様に駆け上がって視界からダガーナイフを突き立てたからといって、首を剃り落としたからといって、全てが丸く収まる相手では無い。
逃げ道なんかでは、無いかも、しれないだろうが。友情の残骸の捨て場無くいるお前と俺は違うのだ。恋情を持て余し続け、神格化して仕立て上げても立場を悪用しても満たせずにおり、新天地を求めたのが俺なのだから、根本から異なっているというのに。
それとも。野生的な解決法として、肌の境界を汗と蜜で曖昧に半融解させれば片付けてしまえるとでも云うのだろうか。
何にせよ今は時計の針が容赦なく迫り、俺たちを別とうとしている。朝食と着替えとシャワーならば既に諦めていた。ベストを纏い、装身具をぶら下げて。踵を返す直前に荷物をまとめ終えていたなまえを振り返る。
「おい」
ぽーん、と。軽やかに放物線を描いてなまえの手に収まる鈍色の金属具。
「鍵、ですか……?」
「嗚呼。閉めとけよ。言っとくが合鍵は無ぇからな。無くしたらただじゃおかない」
「わ、私が持っておりましたら、ご帰宅しても入れなくなってしまいませんか?」

「夜開けとけ、っつってんだ。また家に上げてやるともな。察しろ、ばぁか」

このにぶちんが。

***

やがて訪れる夜空に胸を踊らされる俺は、夜に待つ彼女を思う。

少年期即ち青春時代に次いでやってくる青年期を隣国では朱夏時代とするそうだが、その朱夏とやらは凡そ三十代から中年までを指すとの事で。つまるところその文化圏内に投じられれば俺もまだ青春時代真っ只中と云えてしまう。それによって自分はまだ若いのだと誇示したいなんてわけでは毛頭無く。
早くに覚えた煙草で衰えた俺の味蕾だが、それでも感じ取れない訳ではある無い。この、『思夏期』とでもしようか。思うところのいろいろあり過ぎるこの夏季を、朱夏を、思夏期を、享受するのも悪い事ではないのではなかろうか。左様な考えに至った次第である。
そういえば隣国で朱色と言えば孔雀だが、其れは西方を指している。春夏秋冬と東西南北に当てられた青朱白玄に倣い、黄昏時に少しばかり憂いてみようか、それともマラカイトの宝飾品でも身につけてみようか。


2018/03/15

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