短編

地球のはらわたを抉るように、この心すら捨ててしまいたい


なぁーん、という乳飲児みたいに甘ったるく鳴いていた声帯を震わせてくれる神経はもう働かない。大きな耳の谷間の頭を撫でてやると心地良さげに閉じられて水平になる目も耳も動かず。ましてや瞼が持ち上がり、零れ落ちてしまうのではというほどの大きな飴玉の瞳も顔を出さない。この家に来たばかりの、愛くるしい子猫は生きてすらいない。
重力に押し潰されて全身の骨という骨を粉砕された子猫の身体は芯を失いふにゃふにゃとしていたのが、時間の経過と共に温もりを逃し、冷え固まり、硬直を遂げていく。
ごめんな、と。
手ずから作り上げた死体に向けて。ひとり語散た懺悔も届きやしないだろうが。


「その箱、どうなさったんですか。捨てるんですか? 今から?」
両手に収まる宝石箱程の段ボール箱を小脇に出て行こうとした俺と、入れ違う形で帰宅したなまえは不審な箱をどうするのかと問う。
「あぁ。ちょっとな。出て来るわ。すぐに戻る」
俺が殺めた事実はつゆ知らず、なまえはいつも通り自分を待ってくれているはずの愛猫に向けても「ただいま」を伝えに向かった。猫の名を呼ぶ声が何度か聞こえるのは捜索中だからだろうが、そいつは今無残な有様で段ボールに詰め込まれているのだから見つかるはずもない。
靴に爪先を突っ込んだところで背後から呼び止められた。
「待ってください」
「どうした」
「いないんです、あの子」
「ちゃんと見たか? どうせ押入れにでも隠れてんだろ」
「押入れの戸はちゃんと閉めているじゃありませんか。わざわざ猫用の留め具まで買って!」
「あー……、そうだったか?」
「……私が勝手に拾って来た時も、飼うのを快諾してくださったから中也さんもお好きなのかと思ってたのに。酷いです」
「あいつに対しては酷い事なんざ何も……」
「でしたらそれ、見せてくださいませんか。その箱の中身」
耳朶に、箱の裏側を内部から引っ掻くような音と、あの産ぶ声のような鳴き声を錯覚しそうだ。
そんなはずはない。仮に満身創痍で済み、未だ猫の心臓が蠢いていたとして、顎や前足の一つすら満足に操れる状態ではないのだから。
「…………――すまねぇ」
蓋部分の隙間をそっと開き、中の体毛の片鱗を確認させる。
なまえのしゃくりあげるような悲鳴。
蒼白した顔でよろりと後退し、爪先の向きからその脚が手洗いに向かおうとしているのを察すると履きかけの靴を捨てて頼り無い肩を支えた。なまえは嘔吐した。


なまえが拾った――否、なまえの愛猫趣味を知る敵対相手によって拾うよう仕向けられたあの野良猫には、盗聴器が仕掛けられていた。目立たないよう毛の中にでも忍ばせておけばいいそれだけでも殺処分を施す理由にはなり得るが、しかし自宅で速やかに行う必要性は低かった。猫の体内にも、俺の私生活を探る為の機材数種類が埋め込まれていたのである。専門知識を以って調べたわけでもないので何を目的とした小型機器だったのかも定かではないが、すぐに潰すべきものであるというのは一目瞭然だった。
「何の相談もなしに悪かったと思ってる」
粗末な霊柩はひとまず居間からは目に入らない玄関先に置いてある。
屍で道を切り拓いて来た身としては畜生一匹の死が加算されたところで少しも揺らぐものがないのが自らの非人道性を色濃く描き出すので心地が悪い。俺もまぁ随分と加虐的なあほんだらに狙われたものだ、とか。今後は寄贈されたぬいぐるみのひとつにも神経を張り巡らさなければならない、とか。その程度にしか捉えられずにいるが、そこには人間らしさを覆い被せて。
「ただ手前を守りたかったっつうのはわかってほしい」
なまえは緩慢にこっくりをし、顔を覆っていた掌を膝に落ち着けた。償いのように、慰めのように、気休めの様に、目尻で光る水の粒を親指で盗み取る。せめて頬に、と唇を寄せようとするが一寸の距離で躊躇いが生まれ、擦り寄るだけに留めた。


2018/03/12

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