短編

まちかどは燃える


※女学生シリーズ『ハニーミルキィ・ドライバー


フロント硝子を巫鳥に濡らす無数の雨粒をワイパーは一往復で呆気なく攫った。ぽつ、ぽつ、と止め処なく落ちてくる雫は性懲りも無く硝子一面を覆いにかかる。幾つかの粒が寄り合って、くっついて、大きな尾で筋を引き流れていく。夜陰を挟み赤面して足止めを図る信号機と他車の灯りを、張り付いた水滴が乱反射し、俺の眼を穿った。
こう捕らえられてしまっては暫くは動けず、おまけに朝から太陽も休息していた空模様にも関わらず眩ゆいのだ、無性に苛立ちは煽られる。下手に目つきを鋭くしてびくつかせるのも忍びないのでなまえの前ではそういった言動は極力慎むのだが、折り悪くニコチンが体内から消滅した所での事だったので、舌打ちが漏れていた。
「御煙草、吸われたらいかがですか。さっきからずぅっと苛立っていらっしゃいます」
察しのいい女学生には、彼女を車内に上げる前――衝動的に抱擁に及んだ刹那にはもう衣類に染み付いた煙たさで喫煙嗜好が発覚してしまっていたので末恐ろしい。
「いや……今はいい。気分良いもんでもねぇだろ」
「身内に喫煙者がおりますから。賭け事やお酒や喧嘩なんかよりは全然気にならないんです」
「……」
例としてあげられたものの殆どを嗜んでいるとは言えなかった。
ぽっかり、と。今夜は留守にしている月のクレーターみたいに穴の空いた土曜は、電話口でなまえに時間を差し出した。そんな風に、この日はどうだ、と提案した時には既にどこかで予感は働いていた気がする。
さよなら、別れ、遊離、終幕。
自分の背後に築き上げた屍の数を思えばこいつを攫い去ることなど造作もないが、いやに高い純度と透明度を誇る愛とやらが芽生えてしまって、それが手癖の悪さとひん曲がった性根をたちまち浄化してしまう。身を引く算段で近づいて、今もそのつもりであることは揺らぎはしないものの、なまえに胸中を悟られていないのをいいことに俺は人知れず遅延行為を重ねている。
窓枠に肩肘を置き、片手でハンドルを握ったまま発信したが、片手運転だとなまえが酷く怖がるのを思い出し、そちらも添える。不恰好だが、まぁ、なんというか、甘くされたものだと思った。ちんちくりんの餓鬼に、骨を抜かれたものだと。
「手前に黙ってることがある、っつったな」
終止符の弾薬を、掌中で鉛筆回しの要領で弄んで。
「はい――中也さんには、俺には秘密が多い、って。それでも、って」
きっと何も語れない。その事を許す必要はない。ただ、それでも、信じてくれるのならば俺の手を取ってくれ――というようなことを伝えた覚えがある。我ながら歯の浮く小っ恥ずかしい台詞をよくもまぁつらつらと淀み知らずに述べられたものだと思う。
「全部明かす」
ひときわ大きな雨粒が車体に打ち付けられ、だんっ、と着弾のような音を立てた。ぼつ、ぼつ、と叩きつけられる幾つもの雨音が先程のものを境にやけに耳に飛び込んでくるようになる。
瞠目する気配のあったなまえを横目に捉え、再び視線は前方へ。
先程のからあまり間髪入れずしてまたしても信号の捕縛に遭ったが、今回はいい折だったように思う。俺はなまえを見据えた。
「俺はポートマフィアの構成員だ」
全て――では、到底ない。だが一呼吸の身の上話で、纏った罪の数もこの手を染める液体の色も理解は容易だ。
なまえの大きく開かれた瞳の上、次第に厚く重ねられて行く水膜が外界の水面のように揺らめく。それは涙の前兆しだ。
「私はどうするべきなんですか」
この期に及んで尚なまえは俺に示教を仰ぐ。哀れさたるや。
「んなの決まってんだろ。平手打ちでもぶちかまして、最低、とか叫んで、こっ酷く振りゃあ良い」
俺を殴るには随分と非力な手が、ひくり、と座席の上で痙攣した。掌が持ち上がりかけてから、出来ません、と。折れるのではという程か細い声。
「それとも俺についてくる覚悟でもあんのかよ、手前に。非道な人間と一生を共にするっつう覚悟が」
ふるふる、とかぶりを振る。
「それが正常……普通だ」
その価値観の中で彼女は息をし、目を閉じる。それでいい。
「変なこと言って悪かった。何も手前が極悪人の嫁になる覚悟を決める必要なんざねぇんだ。手前は正しい。逃げろ。俺を悪役にしろ。どうせ実際問題そうなんだからよ」
「……出来ません」
「……我儘な糞餓鬼は嫌いだ」
「…………」
暫しの間なまえは黙し、やがて思考を固め終えたのか口を開いた。
「駅で下ろして頂けますか」
「あぁ」
短い返答。これが望んだ幕引きの形なのだろう。
しかしながら格好悪い。頭のてっぺんから爪の先に至るまで、ひたすらに無様だ。
かくしてなまえの望むまま、最寄駅で停車させた。「ありがとうございました」と送迎に対してか今までの関係に対してかわからない謝辞を手短に述べ、そそくさと夜雨の中で下車しようとするそいつの背中は、背中が濡れるのは見捨てるようで見送れそうもなかった。
「おい」
ドアに隙間が生まれる。
制止を図り、掴もうとしたなまえの手は逃げていく。何も未練からの引き止めなんぞでは決してない、恥ずかしがる事もなかろうと追いかけ、手首を強引に掴んで、繋がず、自分の蝙蝠傘の持ち手を握らせた。
ドアの隙間から幽かな飛沫と雨音の波が流れ込んできた。
「お借りしたら、返さなくてはならなくなります」
「こんなもん捨てりゃあいい」
「中也さんはどうなさるんです?」
「俺は……」
重力を操って雨粒を排してしまえばいいだけのこと。言うべきか否か迷ったが、全て明かすという先の約束が鼻先をちらつきやがるので余すところなく晒してしまう事にした。
ぱちり、指を鳴らせば、雨音が遠のいた。
「さっき全部って仰ったのに……。違ったんですね」
なまえが寂しげに云った。
窓硝子の外、灰色の闇の中に俺の蝙蝠傘が咲いていた。包まれている少女の体躯には到底不相応なやけに大きな男物のそれなどは、いっそあいつの手で燃やされてしまえばいい。


2018/03/08

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