短編

夏色に透ける




茹だるような暑さは正午を過ぎればピークを迎え、じっとしていても汗は止まらず滲み出る。風通しの悪い木造建築で、尚且つ空調設備すら満足に整わない、それこそ蒸し風呂のような校舎では勉強する気も起こるまい。
地獄のような環境下、元よりさぼり癖のある自分が率先して授業に出向く訳もなく。プールへ涼みに行こうと思い立つにも時間は余りかからなかった。
超生物の隙を見て、教室を抜け出すが俺はすぐに後悔する。一歩外に出た途端、全身から汗が滝のように噴き出たのだ。身体にまとわり付く湿った衣服が不快な事この上ない。
その足取りは重く、客観視すれば歩く姿はまるで死者の行進のようだろう。

「あー、暑い……」

シャツの襟を持ち、ぱたぱたと風を送る仕草をしながらの独り言が、熱気に絡め取られていくようだ。
新緑に萌える木々の間を縫って伸びるそこは、まさに獣道。緑のトンネルを潜るように続く小道を更に数分歩く。
そうして辿り着いた先は僅かといえど人の手が加えられた場所だった。元の自然を生かした造形に、誰の手によるものなのかは明白で、認めたくはなかったが不覚にも感心してしまう。
やっぱ殺せんせーは器用だな、なんて思った矢先。……ふと、プールの淵で僅かに動いた何かを捉え、反射的に茂みに身を隠す。誰もいないと思われていたこの場所に確かに人影を見たのだ。
最初は獣かと思ったが、よくよく見れば付近の手頃な木には見慣れた灰色の上着が一着、引っ掛けてあり風を受けてはためいていた。誰だろう。サイズからして女子であることに間違いは無いだろうが、基本的に真面目な人間が集まるうちのクラスでは、授業放棄をしてまで涼みに来る人物など心当たりが無い。
探りを入れようと思ったのは、純粋に好奇心が少しばかり刺激されたからだった。自らの存在を悟られぬよう、極力音を立てず可能な限り生徒との距離を詰める。
水場ならではの冷えた空気に、先程までの汗が急速に引いて行くのを感じながら、日差しの中を見据える。

小川のせせらぎと虫の鳴き声だけが響く静かな沢で、制服をたくし上げた少女はひとり岸に腰を落ち着け冷水に足をさらしていた。抜けるような白さの細い脚はぴんと揃えて伸ばされ、一糸纏わぬつま先でぱたぱたと水面を叩きながら一心に風景を見つめているその姿は例えようもなく愛らしく、美しい。
水辺まであと数メートルというところで立ち止まると木の幹に手を掛け、俺は無言で少女の後ろを眺め続けた。
危うく呆然と突っ立っているだけで時間だけが経過しそうになるが、途端に我に帰る。
何かに圧倒されたかのように前を見据えたまま後退しようとした時、その動きを静止させるように前方から何かが飛んできた。空気を裂く鋭利な音。当たる寸前に躱したので、こめかみすれすれを掠めた飛来物は側にあった木に当たり、大きな音を立てる。地面に転がったそれは、政府から支給された見慣れた特殊ナイフで。

「誰?」

怪しむような、不機嫌そうな、迷惑そうな……、あらゆる文句の入り混じったような声色で、動揺もせず彼女はたった一言発しただけ。耳をくすぐる甘い声音。玉を転がすような美声の持ち主は、他に知らない。
茂みに巳を隠していた自分を出てこいとばかりに睨みつけてくる眼力に、せっかくの可愛い顔が台無しじゃないか。などと茶化すように呟きながら、この場はおとなしく姿を現わすことにした。
両手を顔の高さに持ち上げて、彼女の名前を呼びながら。

「みょうじちゃんもサボり?」

返事は無い。問いに対する答えの代わりに彼女が持ち上げた足が水を掬い上げ、ばしゃりと儚く音が散る。
無言を肯定と受け取り、全面的に苛立ちと嫌悪感を醸し出す彼女の隣に腰を下ろすと、その眼差しと同じ方角へと自分も目をやった。

「しかとはないだろー」

陽光を乱反射して、波紋が揺れる。
風が立ち、緩やかに波打てば、幾つかの木の葉が進む。
先ほどからずっと、彼女はこれを見ているのだろうか。正直、酷く退屈だ。さぼるならさぼるで、全身を水に浸かるだとか有意義な過ごし方は山ほどあるはずなのに。こんなところで、授業をさぼって、ひとりで、何もしないで。全てを見透かしたかのように彼女はいつも人間観察のごっこ遊び。
だけど、きっとこの子は見ているようで何も見えていない。虚ろな目は明後日の方向を見据え、周囲の景色なんて目に入らない。俺すらも、無いもの同然の扱いなのだろう――と。
あぁ、そう思ったら無性にいらつくな。

「ねぇねぇ、みょうじちゃん」

予想に違わず何も返って来やしないので、作戦は決行に移すとしよう。
夏服に包まれた背中に向けて触れる寸前の間合いまで自身の手を突き出し、殴りつけるとまではいかないがその勢いで押し出した。
手が触れた瞬間に跳ね上がった肩。ぐらり、バランスを崩し傾いた前身に、振り向きざまの大きく見開かれた少女の瞳とかち合ったが、そのまま彼女の身体は水の中へと真っ逆さま。
ばっしゃーんっ!! と派手な水音を巻き上げながら、綺麗に落下した姿に腹を抱えて俺は笑う。
ぶくぶくと気泡が湧き上がり、やがてはまあるい頭が浮いて来る。手で水を掻き分け、水飛沫を上げながら顔を出した彼女の開口一番は怒号だった。

「ぶっはぁ……。何すんのよ、赤羽ッ!!!」

かわいい顔を怒りに歪めて、彼女は講義を叫ぶ。
髪からは雫が滴り、薄いワイシャツが濡れた肌に張り付いたその様は予想外に艶やかだ。あーあ、下着も透けちゃって。くっきりと浮かび上がった淡い色に「ピンクか。チェック柄なんてかーわいー」とセクハラ罪で訴えられても反論できないような感想を放てば、小さな拳に髪を掴まれた。
水も滴るいい女の、きつく睨む眼差しは俺を捉えて離さない。

「誰のせいだと思ってんの」
「んー、俺?」
「わかってんじゃん」
「そりゃあねー、実行犯ですから」

岸に手と足をかけ、這い上がってきたなまえに手を差し出すと突っ撥ねる余裕もないのか、おとなしく掌を預けてきたので引き上げる。ふらふら立ち上がったびしょ濡れの身体を自分の方へ抱き寄せると、反応が薄いのをいい事に唇を奪いに掛かる。
触れ合った直後、口内には鉄の味が広がって彼女の口に歯を立ててしまったのかとぼんやり思った。傷口を弄るように舌を出して舐めてみれば、ようやく状況を悟ったらしく、微かに漏れ聞こえるくぐもった声を耳が拾う。
嫌だ嫌だとばかりに小さな身体は必死に抵抗するが、別に俺は何もしていない。そう、無駄に長いソフトタッチなキスくらいしか。この程度であれば呼吸妨害にもならない筈なのだが、思いの外彼女が苦しそうだったので止む無く解放してやる。
幼い口づけ一つで真っ赤になって反論の意すら見失い、視線をふらふらさせる彼女の姿は、普段の凛々しく毅然とした態度からは想像もつかないほどにしおらしく、愛らしかった。
やばいな、なんて。自分で彼女をこんなにしておいて言うのも何だけど。男心はそそられる。

「みょうじちゃんさ、俺と付き合わない?」
「欲求不満解消したいだけなら他当たってくんない」
「うわっ、ひっどいね。本気なのに」

偏見意外に何も含まぬ置き土産を吐き捨てて、すたすた学生服のジャケットを取りに歩いて行ってしまうその背中を眺める。
果たして、この子は知っているのだろうか。冷水の如き冷たい言葉を容赦なく浴びせかけ、問答無用に厳しく突き放したところで、それは逆効果でしかないことを。誰もが振り向き、街を歩くだけで告白を受けるその美貌が男を魅了して止まないということを。
出歩けば世界を狂わせるほどの儚い美麗は、さながら天使か妖精かと言われんばかり。
結局のところは自分も、“魔性の愛らしさ”とも取れる少女の容貌に惑わされているだけなのかもしれない。
掛けてあった上着を手に取り、濡れた胸元を隠すように持っていく横顔は、微量ながらに恥じらいを含んでいて。
甘い蜜に誘われたように、無防備な背中に覆い被さり腰に腕を回して抱き締めると、震えと水を孕んだ衣服の冷たさが直に伝わってくる。

「ほんとに付き合う気ない?」
「…………ない、よ……」
「嘘。こっち見て」
「やだ」

…そこは即答だった。
とはいえ、分かりやすく赤面したその顔で、耳まで染めて反論されても説得力などまるで感じないし、はいそうですかと引き下がるほど俺も遊びで人を好きになったりはしないのだから。なんて、日頃の行いが良いとはお世辞にも言えない自分もまた説得力に欠けるわけだし、疑い深い彼女からすれば真摯さを1ミリたりとも感じられないのだろうが、それでも俺は本気である。ここは何が何でも彼女に折れてもらおう。
ちゅ、と耳たぶにキスを落とせば肌に篭った熱を感じる。

「なまえ、」

畳み掛けるように、彼女の名前を耳のすぐそばで口にする。

「……いますぐ、答えなんてでるわけない……」

恐らくそれがいまのなまえの精一杯。
歯切れの悪い曖昧な受け答えは迷いの表れだと悟り、俺は勝利を確信した。


2016/04/22
表面では苗字呼び、心の中では名前呼びなのはミスではないのです。

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