短編

嘘でもバカでもいっしょにいようね


なぜ、って。
影が揺らいでいたのだ。
靴音に覇気が足りなかったのだ。
「中也さんお車ですか?」
「あぁ? 嗚呼、そうだが」
「宜しければ私が運転致しますよ。お風邪召されたのでしたら危ないですし……、お送りします」
「……手前、いつから気付いてやがった」
「いつって……見るからに具合悪そうでしたもの。他の方々も気にかけていらっしゃいました」
後頭部を掻く代わりにお帽子を目深に沈め、浮かべるばつ悪そうな表情が童顔を際立たせる。仕事中の険しく狂気的な剣幕が印象として焼き付いてしまうと忘れがちではあるが、そういえば中也さんは幼げで可愛らしい相貌なのだ。
「……頼んだ」というぶっきら棒な一言と共に、車の鍵が放物線を描いて放り投げられ、私の掌に収まった。疎い私でもわかる高級車のエンブレムの煌めきに、もしうっかりでもして傷つけてしまい修理代を請求されるくらいなら首が飛んだ方が幾分か楽だろう、なんて。粗暴かつ荒々しい語気に反してとてもいい御趣味で、どこからかエレガンスの香る上司だった。

唸りをあげるエンジン音が鈍痛に似た響きを以って鼓膜を打つ。強張る肩と今にも青筋の浮き上がりそうな腕。私は両手でハンドルを握っていた。
耳を傾ける者もいないのに健気に流れ続けているレディオは私が止め方を知らないからだ。何とか音量の調節の仕方だけは見つけ出せたので小音で話し続けているだけだけど。
助手席で腕組みをし、うつらうつらと頭を揺らす中也さんの顔に黒帽子のブリムが影を作る。街灯の柔らかな電光が車窓を流れて行く度、帽子の影は伸びたり、縮んだり、横に肥大したりをした。私の影もまた伸びて、更に伸びて、蠢いて。やがては消える――夜陰に同化する。車内そのものが影と化す。

中也さんの座席のドアを開け、下車を手伝う。鍵をお返する。途中で購入した野菜ジュースやゼリー飲料などの軽食も一緒に。これで私の使命は果たされた。
「では、失礼致します」帰路に着くつもりで言い置いた挨拶と会釈だったのだが、どうしたことか『お荷物お持ち致しますよ』というような意味合いにすり替えられていた。いつの間に。一体どうして。嗚呼、中也さんが極自然に私を誘ったからかしら。
中也さんのお部屋は相変わらずカーテンが締め切られていて、そして相変わらず煙の残り香が壁に染み付いていた。手渡された外套と帽子と手袋をコート掛けに引っ掛け、クローゼットを開けさせて頂く。
「お着替え、余分に出しておきましたので。汗をかかれたらその都度着替えてくださいね」
「あぁ。そこ置いていてくれ」
下着を出す際と渡す際は流石に気恥ずかしさが指先にまとわりついて来た。
「あとこいつ、頼む」
とんとん、と夜くらいしか空気に晒されない中也さんの指が指し示すのは首元を封じる黒のチョーカー。組み敷かれながら外すように言われた夜が脳裏を掠め、私は卑しくも喉を鳴らしてしまう。一度経験したことなので指が覚えており、手間取りはしなかったものの、にぃ、と歯を見せて笑う中也さんにどきどきとさせられ、また彼の首の骨や喉仏にもまたそうさせられた。
中也さんがワイシャツのボタンを外して行くのを見、私は早足で廊下に出た。しかし直ぐに歩みを遅めて寝室に向かう。ゆっくりと着替えを枕元に置きに行って、それからゆっくりと戻ってくれば中也さんもお着替えを終えていらっしゃるだろう。
足音を忍ばせると廊下の隅に溜まる夜陰には床の軋みだけが融け落ちた。
居間に戻り、ソファーに掛けられていた中也さんの召物は、はたはたと皺を雑に伸ばしてハンガーに通しておく。
「朝食を用意してから私は帰らせて頂きますね」
「引き止めて悪かったな。俺は先に寝させて貰うぞ」
「わかりました。おやすみなさい」
伝染してしまっても行けないので互いの頬に啄ばみのキスだけを散らして、中也さんと別れる。伝染の懸念も家にまで上がって置いて今更な気もしなくもないが。
不躾ながら冷蔵庫を覗いて、簡素に卵粥にでもしようか、と頭の中で献立を組み立て始める。少量ながら食材が仕舞われていた事に安心をしつつ、調理に取り掛かった。

自身の外套を小脇に携え、帰りのご挨拶をと寝室の扉をノックする。かちゃ、と押し開いて隙間から片目で室内を伺うと、布団の擦れる音がして。寝返りを打ちこちらに顔を向けた中也さんの、三白眼が肉食獣の眼のように閃光したように感じたのは私の脳が些か夢を見過ぎているからだろう。
夢現つでいらしたら頭に響いてしまうかと考え、声量を潜めて紡ぎ出そうとする。そろそろ帰ろうかと考えています、と。しかし私が発する前に。
「なぁ、水、貰えねえか」
「は、はい。直ちに」
サイドテーブルの水差しとグラスを取った。閑散とした室内に私の水音が注がれる。月光がグラスの中を跳ね回る泡の影を床に写した。のそ、と上肢を起こした中也さんに手渡すと、ぐい、ぐい、と彼は僅か二挙動で飲み干してしまった。まだ足らないとばかりに「ん」とグラスを突き返されたので再び波々と満たすと今度は半分程を口にして、テーブルにグラスを置く。
「他に何かお手伝い出来る事はございますか」
「あー……、風呂場から手拭い持って来てくれ。汗が気持ち悪りぃ……」
「それでしたらお着替えと一緒にこちらにございますが」
「……おぉ、悪りぃな」
手渡したタオルを汗ばんだ首筋に宛てがいながら、中也さんは視線を私へと差し向ける。
「手前、帰んのかよ」
「えぇ、はい。遅くまですみません。お大事になさってくださいね」
深い嘆息。きっと熱かろう。
「……めんどくせぇんだよ、戸締り」
「……左様なら、仕方がありませんね」
「だろ?」
えぇ、仰る通り。左様ならば仕方がない。私が中也さんの毛布をお借りすることとなるのも。ご面倒ならば、仕方がない。左様ならば、さようならは出来兼ねる。
今夜は暴力に等しい愛を目一杯注がれるわけでもないけれど。月光と共に慈しむように寄り添うのもまた、よろしいでしょう。


2018/02/16

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