短編

失透する肉体


太宰さんと部屋を分け合うようになり起きた変化いえば起床の義務感の強まりだ。特別朝に弱い体質な訳でもなかろうに起こさないといつまでも夢の中から出てこない同棲相手を出社させる義務が、自分の生活の慌しさに常に付加されている。ぱち、とフライパン上で弾ける油の音から逃れるべく、普段なら布団を引っ張り上げて耳まで覆い隠す衣摺れ音が背後で鳴るのだが、今朝はそれがない。珍しいと思い首を回して振り向けば、細長い膨らみの連なる布団の山が既に完成していた。火を消し、簡単な朝食を皿に移してから、ぱたぱたと太宰さんの覚醒を手伝いに参上する。

「そろそろ起きませんと……いい加減時間不味いですよ」

布団に手だけで侵入し夢現つを演じる彼の前髪を撫でようとした時。触れた薄い皮膚が孕む異様な熱量に驚かされる。ばふ、と捲り上げると勢いで風が立ち、畝りのある黒髪を舞い上げた。眼前に晒された肩が肌寒そうに縮こまり、眉間に皺が刻まれれば柳眉も苦しげな歪み方をする。そして何よりも強く瞳に突き刺さるのは熟れた林檎色の顔色である。これは、不味い事になった。まさかの風邪は奇襲さながら。あらまぁ、と口元を抑えつつ、念の為に再度体温を確かめてみると、掌を焼くような熱が全体に伝わって。

「だ、大丈夫ですか……?」
「なまえちゃん……。…………怠い。信じられない倦怠感だよ。ほんとう、呼吸も億劫なくらい。ねぇ、助けて」

砂漠の迷い人と見紛う――否、聞き紛うほど乾涸びた声音に、いまいち会話の形は守られずに一方的に縋られた。私の口からは、「は、はい。助けます!」学生以来の良いお返事が飛び出す。無遠慮に剥ぎ取ってしまった布団を再び掛けた。
ひとまず社に連絡を入れなければと眠りについていた携帯端末の画面を指で叩いて呼び起こす。その片手間に、今尚その身で布団の山を拵えている太宰さんに私は平素より意識的に幾分か和らげた声音で問いかけた。

「太宰さん、お一人で病院まで行けますか?」

汗腺の緩んだ手が掛け布団を押し上げ、出来上がった隙間からこちらを伺う前髪と双眸。違和と心配を覚える緩慢さが付き添いの有無を伺うのが野暮であったことを知らしめる。

「今の私が、辿り着いた上、受付で手続きまでして、待って、受診して、待って、会計を済ませて、薬貰って、帰って、鍵開けて閉めて……ってそこまで出来るようになまえちゃんには見えているのだね」

身体能力のことごとくが常人未満にまで成り下がっている中、饒舌だけが確認出来たの良しとしよう。しかしながら病人相手だからといって先のような言い草でかちんとくるものが無いということはない。

「昔々に、私が素直な殿方を好ましいと申しましたの、太宰さん、覚えていらっしゃいます?」
「…………」

回転の落ちた頭で喧嘩をふっかけてきた太宰さんは、それ故の読みの甘さもあり押し黙る。平常時であっても惚れた弱みというものを突いてやれば、鳩が豆鉄砲を食ったようなお顔を拝見できるのだから彼もまだ可愛らしいところは幾つも持ち合わせている。

「……なまえちゃん」
「なんでしょう?」
「連れていって、くれない」

力無く白旗を掲げる太宰さんに私は微笑む。勿論、喜んで、と。
通話アプリケーションを起動し探偵社に繋ぐ。太宰さんがお風邪を召されたので御休みを頂きたいという趣旨の報告と、加えて病院にお連れしてからの出社となるという二つ目のそれを伝える。
そうと決まれば、だ。食欲も湧かないらしく不要となった太宰さんの分の朝食はラップを被せて冷蔵庫に放り。自分の食事を手早く摂った後、10秒チャージが謳い文句の栄養剤を太宰さんの喉に流し込み、恥じらいも躊躇いも無く寝間着を剥ぎ取り楽そうな衣類に袖を通す手伝いをする。「なまえちゃん……勇ましくなったね」なんて肩口で太宰さんが仰ると、熱い吐息が私の耳朶を焦がした。包帯が巻かれ目を刺す肌色こそ面積が狭められているとはいえ、白昼堂々明るみの中で恋人の下着姿を見ても動じずにいる私のあれやこれやそれは勇姿として見えるのか。
普段使いの外套は厚みが外気を通し難いのは病体には優しいのだが、些か重みが心配だった。お召しになる前からだるい、だるいと口にしていた太宰さんに押し付けるのは憚られたが、ここで優先すべきは保温と結論付け、袖を通させる。
流石に靴はご自分で、と太宰さんを信じたいあまり過大評価していたが、セピアの靴紐を結う覚束ない指使いに無視は決め込めなかった。冷酷人間の入門書がそろそろ必要になるかもしれない。

「タクシー呼んでも大丈夫ですか?」
「うん、構わないよ。ねぇ、ひょっとしてだけれど、朝はさ、なまえちゃんが手伝ってくれた方が早く準備が済むのではないかなぁ」
「今日だけですよ。この歳からの介護は遠慮します」
「えー……、それは残念……」

タクシー会社側の人間が確かめたこちらの住所が正確かを確認し、すぐに来てしまうからと太宰さんを急かして玄関を開ける。表に出るなり危なげな蛇行した歩みの太宰さんの長身と格闘しつつ、タクシーに押し込んだ。
車体の揺れにされるがままに頭を揺らしている太宰さんに失礼しますと言い置いてマスクを着用させる。赤い顔で瞼を閉ざした太宰さんの耳にマスクの紐を引っ掛け、やや惜しむが端正な顔の半分を覆ってしまう。
侍女でも無いのに精一杯尽くしている自分は、理性を携え外から眺めればとても滑稽だろうが、愛おしさに勝るものは何も無いのだ。

下車し、早速蛇行する太宰さんの歩みを正して病院の待合室までは辿り着いたがそこからが長かった。やらかした、と思った。平日午前中の病院は御老人で混み合っているという常識中の常識が、この日に限っては外出前の慌しさもあり、失念していたのである。覚えてさえいれば病人の自宅数時間放置が心苦しいなりに、午後に半休を取ったのに。「すいません……」謝罪を揉み上げに埋もれた耳に届けると、「へいきへいき」と労られる。私の手の甲に重ねられた手は熱いままだった。
このまま待ち時間で午前を潰し兼ね無い。数字を入れ替え続ける携帯端末の時計を焦燥の篭った眼で睨みつけていた時。ぽふり、と肩に重みが預けられた。頬を擽る弛んだ糸と、視界の端に知覚した黒の蓬髪が同一のものだと認識した頃に、至近距離から鼓膜を揺らした窶れた声があって。

「すまないが少々肩を貸してくれないかい」

嗚呼、太宰さんの頭でしたか、と。過ぎる時間への苛立ちから切り離された能天気さで気付き、快く貸し出す。
太宰さんが深く息吹いたが、その嘆息は通気性が抜群に悪いマスク内に留まり、夜の床上のように私の首筋に落ちることはなかった。嘆息に次ぎ、ぐりぐりと鎖骨に額の骨で擦寄られる。流石に痛い。何事ですかと問おうするその前に得られた答えは案外子供じみたものだった。

「嫌だなぁ……。病院」
「そう、ですよねぇ。でも私、御辛そうな太宰さんを見ているのは辛いですから。早く治しましょ?」

尊大喋りで踏ん反り返り、そこまで言われては仕方がない、くらいの尊大さで返されそうなところを、素直な「……うん」だけで従われてしまったので飛び上がりそうになった。


受診後、再びタクシーを捕獲し、自宅に舞い戻る。私に猶予は然程残されてはおらず、太宰さんを寝かしつけた後直ちに職場に直行する――つもりでいた。
枕に黒髪を散らした太宰さんが、ちょいちょいと指で控えめな手招きをするものだから、その挑発とも取れる仕草にすぐさま私は枕元に膝を折った。太宰さんの笑顔を上から覗き込むと重力に流れる髪が邪魔になり、耳にかけて。徐々に頭を低くしていくと、あるところで後頭部に手を差し込まれてぐいと引き寄せられた。そのまま接吻になる。互いにマスクを着用したままであったから、無意識下に不可視の輪郭を探り、感じ取ろうと神経を尖らせてしまい、扇情性が増す。粘膜を感じてすらいないというのに私の血液は酷く沸騰していた。

「ふふっ、真っ赤っか。感染ったんじゃない?」
「そんなこと……」
「じゃあ、どうして顔が赤いんだい。これでは出社は無理じゃないかなぁ」
「違いますよ、これは、太宰さんが」
「私は君のために言っているのだよ」

これは罠。私を招き入れて、引き摺り込んで、温もりの虜とし、逃がさない、罠である。漂う甘美な香りを、煩い羽虫を追い払う時と同じように振り払うも、絡みつく手までは振り解けずに。
掏摸を流麗に成功させてみせるのであれば、逆の行いもまた華麗な手捌きでやってのけるのだろう。私の掌中にはいつの間にやら携帯端末が握らされており、戸惑う。心が揺れる。

「簡単さ。電話でひことこふたこと話して、連絡を入れるだけ。太宰さんの風邪が感染ってしまいました、とかなんとか話すの。病体の私でも、できるよ。ねぇ、お願い。やってみせて」

頷いたなら、敗北。
叶えたのなら、唆されたということ。
私は敗者であり、被害者だ。


2018/02/02

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