ケツ捲ってこんばんは
「あー、もしもし? こいつの履歴の一番上に番号あったからかけてるんですけどォ、お宅の副長、潰れてっからとっとと引き取ってもらえる? ひっく」
ひっく、とは……。
仕事もひと段落してさぁ一休みだというそんな折、袂の携帯端末が蜂の翅の音のように震えた。画面に映し出された発信者は土方さんで、無警戒に通話を受けたけれど。はて、誰の声だろうか、と思案する。
私を迎えたのはどこか緩んだ知らない声と吃逆だった。
しゃっくりの人は辟易の声色だったけれど、芯と核のふにゃふにゃととろけた語調から、この人も多かれ少なかれ酔いが回っているのだと悟る。
「潰れてるって……」
「こいつと飲み屋で鉢合わせしたんだが、こっちが店変えんのも癪だし、俺が負けたみてーだし、って。お互い引くに引けなくなっちまってよ。気付いたら飲み比べになって、で、このザマってわけ」
「すみません、今向かいます。すぐに向かいます。あの、申し訳ないんですけど、お勘定払っておいて頂けませんか? その人のお財布勝手に開けて構いませんから」
「え、まじで? 太っ腹だね、お嬢さん。いやー、助かった助かった。金ねーからさー」
――お金がないのに飲むなんて、変な人。
私はぱたぱたと草履に足を差し込んで、日の暮れた道に踏み出した。
提灯がそこかしこに明々と燃える飲み屋街は、顔を赤らめた大人たちと忍びなさそうに縮こまって道の隅っこをゆくしらふの人々で賑わっている。私は視線を三百六十度、あらゆる方向に絶え間なく投げて、電話口で教わった看板を見つけ出そうと大奮闘だ。
不慣れな場所で戸惑いもしたけれど、道のはずれで屋台の暖簾の隙間から零れる物寂しい灯りが目に触れる。あそこだ、と見つけるや否や爪先をあちらへ差し向けた。
ごめんください、と暖簾を捲り、覗き込めば、ぐったり無様に突っ伏している黒髪赤面の男が、案の定。
「土方さん……」
これではモテ男の名も返上させられかね無い。
そんな情けない大人の、その傍らには人の目を射るような銀髪に、腰に木刀を帯びた男が眠たげな表情をぶら下げて、座していた。
「あ、一緒に飲まれていた方ですよね」
「そうそう。っつーか、土方君にこんな子がいたとはね。鬼の副長も隅におけねーな」
「いえ、そんなんじゃ……ない、と思いますけど。というかさっきからどこ見て話してるんですか? それ電信柱ですよ? 私、こっちです」
「えー? あー、道理でなんか顔色が異様に灰色だったわけだ」
「はぁ」
「彼女さん、ひっく、随分いい女じゃねーの。うぉえっぷ」
銀髪の彼は朱の刺した頬と鼻先と、無気力に憑かれた死んだ魚の目で、ふーん、と鼻を鳴らした。
「すみません、今日はとりあえずこの人連れて帰りますね。今度お詫びをさせてください」
「詫びなんざいらねーよ。別に大したことしてねェしな。……嗚呼、でも」
なんだろうか。彼は存外逞しい腕で自らの波の模様の着物の懐を何やらごそごそ探り始める。そして、ほい、と一枚の紙片をこちらに差し出した。
「頼まれればなんでもやる商売やってんだ。ご近所さんにでも宣伝しといてくれりゃあ……まぁ、そうだな、有難ェ」
「『万事屋』『坂田銀時』……」
「あんたもなんか困ったことがありゃあ依頼してくれ。猫探しでも害虫の駆除でもなんでもやってっからよ。それにかわいいお嬢さんなら大歓迎だ、あんたなら特別価格で請け負うぜ」
「あはは。ではそのときはぜひ」
坂田さんの素っ気ない名刺を懐に仕舞う。
土方さん、帰りますよ。もしもし。起きてください。もしもーし。幾度か呼び掛け肩を揺さぶり続けてようやっと土方さんは不細工な呻きを放った。戻りかけた意識の隙を強引に抉り、彼を椅子から引きはがし。未だ夢見心地なのか、足取りも意識も何もかもが覚束ない土方さんに肩を貸すと、歩みを支える。
坂田さんに会釈をすると彼はひらひらと手を振った。
「土方さん、お顔真っ赤。相当飲まれましたね」
「俺ァ酔ってねェ」
「はいはい。気持ち悪くないですか、お水買いますか?」
「酔って、ねェ……」
「さっきから酔ってねーしか仰ってないですよ……」
「糞、万事屋、てめぇ。まだ酔ってねーぞ……」
「もうお店出ましたし。私万事屋さんじゃないですし」
降りる沈黙。土方さんは朧であろう眼差しでまじまじと私の顔を貫いたのち、たっぷりの間をかけて私を私と認識してくれたらしい。
「…………、なまえ……」
「そうです」
今にも鈍色の涙となって零れそうな、瞳に張った厚い水の膜。焦点が定まっていないことが見て取れる瞳孔と、先ほどの坂田さんとお揃いの顔色は酩酊の証だろう。
癖のない濡れ羽色の襟足が私の首筋をくすぐるのが恥ずかしかった。
「なまえ……。なまえか。そう、か」
「はい」
肯定してもまた足りないと言わんばかりに、彼は確かめるがの如く尚も紡いでいく。
「んで、ここにいやがる……? ゆめでも、見てんのか、おれは……――」
迎えに来たんですよ。夢じゃないですよ。告げるはずだったのだけれど。酔人が文脈などという世俗的な理念を持ち合わせているはずもなかった。
夢現の土方さんは私にキスした。
アルコールと煙たさのニガイアジが味蕾を焦がす。
「な、な、ななんなん、なん……っ」
「…………」
呂律が狂った私を他所に、酔っ払いは俯いたかと思えば。
「うっぷ、おぇぇえゑゑぇげろげろげろ」
嘔吐した。
跳ねた。かかった。フィクションではない以上、ぶちまけられたものには規制はかからない。うわあ、汚物。というかこれでは私とのキスが吐くほどだったみたいじゃないか。
うがあ。
2019/12/07