短編

早朝のごみ捨て場、昼下がりのプラットホーム、夜半の教室、きみが育った街、ぼくの息をつめこんだ部屋、そのすべてに宿る愛


大晦日といえどいつ江戸に降り注ぐともしれない脅威には目を光らせなければならない。真選組の隊士たちは一杯の盃を交わすと、またすぐに殺伐とした夜に身を溶かす――はずだったのだろうけれど。
だらしのない有様に、あらら、と私は苦笑を滲ませた。誰かの枕にされている蛇のラベルの酒瓶ときたら、哀れなこと。
お祭りのように楽しんでいる隊士とその輪のそとがわで屍のように伸びている隊士のあいだの格差がそれはもう現代日本の格差社会の写し絵みたいに凄まじいことこの上ない。
夜食にと、我々女中たちで用意した年越し蕎麦を運び終えると、私はそそくさと襖を占める――。間際。

「おぉ、すまんが、女中さん。トシのやつ、どうやら先に部屋に引っ込んじまったようなんだが、あいつにも蕎麦持ってってやってくれねぇか?」

どうりで土方さんの姿の見当たらないわけである。近藤さん曰く、とうに羽目を外しつつあった彼らに「てめぇらは楽しんでろ」と言い置いて、ご自分は一滴も飲まずに副長室に戻ったという。
かしこまりましたと私は再び盆を抱きかかえた。

***

「お夜食に年越し蕎麦をお持ちしたのですが、土方さん、いかがですか?」
「気ィ利くな。勝手に入ってくれ」
「あ、はい。失礼します」

仰られた通り勝手に障子を開けると幽かな煙に肺をつつかれた。部屋に染みた香りだろうか、それとも一服されていたのだろうか。

「近藤さんが土方さんにも、と仰られたんですよ」
「そうか。悪いな。あとで礼言っとく」

湯気の立ち昇る丼を執務机に乗せると土方さんは早速――――懐から取り出したマヨネーズのキャップを弾いて、半ば握り潰すような勢いで蕎麦の上に捻り出した。あっという間に丼の表面を覆い隠した、えげつない、いっそ憎たらしい、名称を出すのも憚られる山盛りそれに見ていると、胃が驚愕のあまり委縮してしまう。

「お前は食わねェでいいのか?」
「わっ、私は味見でお腹一杯になりましたっ!」

本当は部屋に戻ってから他の女中と一緒に食卓を囲うつもりだったのに!
一瞬にして食欲は削がれていた。何のせいで、とは言わないけれど。何というマヨネーズのせいで、とも言わないけれど。
ずずず、と土方さんが豪快に蕎麦を啜る音が少なからずの恨めしさを帯びて響く。

ワァ――と。
その折、宴会場の方で一際大きな乾杯の声が上がったので、私も土方さんも揃ってぎょっとなって障子の外に視線を馳せた。
一拍の間。そして遠い寒空も震え上がる、鐘の音が明かりの灯った江戸の家々の、そのめいめいの、そして私達の鼓膜を揺さぶった。

「嗚呼――」

ゴォン――ゴォン――ゴォン――と。
鈍く、重たく腹部に浸透する冷厳な音色。只今零時零分。
新たな年の歩みと爪先を揃えていま一つ目の鐘が撞かれたのだ。

「今年も新年早々風俗通いのばれた夫が妻に殴られてるんですねぇ……。ごーんごーんって」
「いや除夜の鐘だろ。今まさに年が明けてんだよ」
「108回も殴られて夫さん可哀想」
「新年早々おめーは情緒もへったくれも無ぇのな」
「あれ、受験生が壁に頭を打ち付ける音でしたか」
「もう突っ込まないぞ、俺ァ」

ちょっとしたおふざけのつもりだったのだけれど。呆れ返ったらしい土方さんは伸びぬうちにとまた蕎麦に口をつける。大きくひらく歯に咀嚼されてゆくマヨネーズの山と具の天ぷら。つぷり、と卵の黄身を箸の先端で崩して。徐々に湯気の濃度の薄れつつあるそばつゆを、ごくり、嚥下。
ヘビースモーカーの彼には馴染みの深い、紫煙を吐く折さながらの所作で食後のため息をゆうるりとついた。すれば土方さんの歯の隙間から湯気の子どもが溢れる。

「今年ももう終わっちまったのか。早ェもんだ」

土方さんは虚空を眼差しながらしんみりと仰った。
明日の朝布団で目が覚めても実感を持てるかどうかもわからない。けれど絶え間ない厳かな鐘の音が震わす今この瞬間は紛れもなく“来年”だ。
そうですねぇ、なんて。気がつけば私にもため息が伝染してしまっているではないか。

「土方さん、明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとう。今年もよろしく頼む」

早朝のごみ捨て場、昼下がりのプラットホーム、夜半の教室、きみが育った街、ぼくの息をつめこんだ部屋、そのすべてに宿る愛


2019/12/04

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