短編

街奇手


「ねぇ、煙草でも始めたの?」

水仕事のさなかのこと。先輩にあたる女中の一人から藪から棒に訊かれて、私は危うく椀を一つ駄目にしてしまうところだった。

「えっ……? 変な臭いしてますか?」
「少しね。お着物に染みついてしまってでもいるのかしら……。どうしたの、なまえさん。お香も焚かないくらいだったじゃない」
「いえ、あの、吸い始めたというわけでは、ないのですが」

漂わせるのはせいぜい石鹸か柔軟剤の香り程度の、純朴な、実のところは垢抜けない、そんな女が突然不似合いな煙たさを振りまき始めたのではこの狭い厨房ではおおきな出来事にもなる。健康に悪いわ、と釘を刺されて、悩みでもあるの、と案じられて、違うんです、と訂正しても強がりと捉えられて、私は途方に暮れる。
女の鼻を誤魔化すのには苦労する、なんて考える私の思考は遊び人の男そっくりそのままだろう。

***

土方さんは煙で喉が潤う天人なのだろうか。
布団から上肢だけを起こし、ライターを鳴らす彼。行為のあと、必ず彼が燻らせる紫煙に私は今夜も眼差しを馳せていた。
肩を震わせる深夜の肌寒さから逃れるべく、私は掛布団の奥へ奥へと潜り込む。心地よく埋まれる場所を求めて身じろぎをする。ほどなくして、気に入る角度で片頬を枕に擦りつけると、一糸纏わぬまま一服している色男を仰いだ。

「お昼にね、煙草始めたのか、って聞かれたんですよ」

私を見下ろす鋭い双眸。けれどどこかに気怠さとあでやかさを湛えている。
煙草をふかす口元に添えられる手の甲には針金のような血管と骨が浮き、私の眼球を奪わんとした。
土方さんの躰に贅肉など一片もない。勇ましく鍛え抜かれた総身は夜陰に沈んでも変わらずで、私のへにょりとした肉体との差に恥ずかしくなる。

「私お香は具合が悪くなるから焚かないですし、香り物も苦手ですし……それで変に心配されました。ストレス? って」

「そうか」とぶっきらぼうこのうえないお返事が降ってきた。
フ――、と肺の中身をすべて晒すかのような、長い一息。空気が濁る。土方さんが灰をトントンと落とすと煙草はまた縮んでしまった。
愛煙家の指がこちらに伸びて、枕に散らした私の髪を掬いとり、唇に仄かな弧を描く。

「においがついちまってんのかもなァ」

にかりとなる土方さんの口元は障子の向こうの三日月ときっと同じだったであろう。

「毎晩こうして過ごしていりゃあそうもなる。それともそろそろ女中部屋が恋しいか?」

私は、……おかげで喫煙者扱いです、とだけ弱弱しく呟くと睫毛を伏せた。
恋焦がれているのはあなたにだ、などと。口にすることは憚られた。
私はそろそろと上肢を起こし土方さんの冷えた肩口に額を寄せてみる。私も土方さんもうだうだと長いこと着物に袖を通さずにおり、汗も熱もすでに引いていたから、慎ましく触れた肌は兎角冷たく。

「冷てーぞ。お前冷え切ってんじゃねーか」

あなたこそ、とは胸中に閉じ込めておく。

「土方さん、一口くださいませんか」
「あァ? ――あ。」

土方さんの手首を掴み、顔を寄せる。飼い主の手からご褒美を頬張るいぬっころみたいに。骨の凛々しい指の狭間でじわりじわりと短くなっていくそれを、土方さんの手から一瞬だけ咥える。
そしてごほりと咽た。がほごほ言うのは喉の悲鳴だ。

「お前の口には合わんだろうよ」

ほら見ろとばかりに土方さん。
そして誰の口直しになのだろうか、舌と煙が絡まる煙たい口づけで追い打ちとされた。


2019/11/15

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