短編

シュユ結晶


「レオリオ。なまえ。」

空路の玄関から新天地へ羽ばたいてゆく者、羽ばたく誰かを送り出す者、はたまた翼を休めている者。木漏れ日のように絶えず移ろい続けながらも、照らし続ける、そこに在り続ける喧騒をひらりと鮮やかに躱して、呼びかける声は限りなく淀みなく、私達の耳朶に辿り着いた。
新聞に釘付けだった隣席のレオリオの眼が。まさに手隙で空港の椅子に預けた背筋をのび〜っと弓なりに変えていた私の眼が。それぞれ流麗に奪われて、声の主その人たるクラピカと、その傍らの愛らしい醜貌の同行者の元で束ねられる。

「それではそろそろ行くよ」
「ホントにいいのか? 2人にはナイショで」
「ああ。2人は今1分1秒を惜しんで修行をしているからな。また会おうと伝えてくれ」

わかれはあっという間。去り際はあっけない。脳の螺子が緩められればあくびさえあふれてしまうほどに。
チョイチョイ、とセンリツを手招くレオリオの、その傍らを私はすり抜けていく。彼らの内緒話が琴線に触れなかったわけじゃあなかったけれど。すでに航空チケットを構えているクラピカは相も変わらず駆け足の旅路らしくて、どうしようもなく焦燥させられてしまう。

「クラピカ、」

呼べば。クラピカの振り向き様、酸素を孕んで軽やかに舞い踊る稲穂の如き金髪と、靡く髪の隙間から現れる、耳飾りの輝きと躍動に魅せられる。蒼く描き出される、空港の清潔な世界でのその一瞬は魔法みたいに麗しくて、呼吸が跳ねた。
またみんなで会えたらいいね、身体壊さないようにね――結局、私の廻らない頭で紡ぎ出す事の出来るのは、表膜を滑り落ちる雨水同様に無害で、でも癒しなんてひとつも齎さない当たり障りのない言葉だ。

「あの、クラピカ。また会おうね、みんなで。それから身体にも気を付けて」

ほうら、ね。
私はつまらない。

「心に留めておくよ。ありがとう。なまえも、くれぐれも無茶はするなよ」

嗚呼、嗚呼。なんだかな。クラピカが静やかに咲かせるのは、海底深くに攫われてしまいそうな人の笑みなのだ。あのときゴンたちとともに鎖を刺してと願ったはずが真摯に拒まれてしまった、いっそ哀れなこの心臓が痛んだ。
私は、唇に愛を載せることにしよう。語を語るためではなくて、捧ぐために。
蒼穹と蒼い硝子と雑踏と喧騒と私達の拍動のなかで、私はクラピカの唇を摘み取る様に奪った。或いは、狩った、と記すべきか。クラピカの厳かで頭蓋骨に響かないオーラが刹那的にたゆたったことは明瞭。悪戯心は沸き立った。
唇同士を遊離させると、少年のような少女のような、年相応な、驚愕と羞恥の滲む猫目がはっと刮目しており、いままさに私と触れ合っていたくちはといえばはくはくと鯉のように閉じては開いている。

「な……っ! 公衆の面前だぞ! まったく、本当に……」

参るよ、と。
らしくもない蚊の鳴くような声で、これまたらしくない敗北宣言を告げるクラピカ。
しゃらんら、と鎖を擦れ合わせながらに右掌で朱の差した頬を私の眼から隠すけれど、稀に見るクラピカの照れた表情はしかと捉えていた。

「ごめんね。何か、クラピカの顔見てたら……つい」
「“つい”、ではない! 場所を弁えろ! 君の国の作法は知るところではないが、少なくとも私の故郷ではこういったことはもっと人目を忍んでだな……――まぁ、いい。しかしおとなしくしているかと思えばとんでもないことを考えていたな……。おまけに恥知らずで、本当に仕方のない奴だ、君は」

それは私にばかり言えることでありましょうか。涼しげな論調でつらつらと雄弁に並べ立ててはいるものの、声色はどことなく跳ねている。朱色に染まった頬と寄せられた眉に至っては恥じらいを秘めきれてはおらず、私は密かにしたり顔だ。
うん。仕方のない奴だから、仕方がないんだ。左様にことんと首を傾げて笑いかけると、私と異なり無恥ではない道徳家なその人は煩わしそうに唇を引き結んだ。クラピカの戦慄く拳に気付いて、チケット握り潰しちゃうよ、と空気を読まずに伝えれば、「なまえ!」と場を裂く声音が飛んでくる。けれど、すぐに諦めたような、疲弊したような嘆息をするのだった。

「ね、クラピカ。別離のキスだって思わないでね?」
「嗚呼。わかっているつもりだよ。……いつか会う頃には少しは利口になっていてくれ」


2019/08/16

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