短編

痛いこと全部ビスケットみたいに食べてあげるよ


ブオォン、とドライヤーを唸らせて、クラピカの旋毛を熱い風で撫で付ける。私の家のソファに深く沈み込んだクラピカの、気持ちよさそうな、緩やかな瞬きを数えてみる。ひとつ、ふたつ、と。
それにしても、腰掛けるのがうまくなったものだ。上等なソファからずり落ちてしまう、なんて可愛らしい失態を晒していた時代もあったというのに。あのような無垢な姿はきっともう見れないだろう。
悠々と座すクラピカと、背後に立つ私。私は背もたれ越しにこの人の金髪に風を当てながら、時折葡萄を踏む少女のように繰り返しステップを踏み、実に様々な角度から巧みに乾かしてゆく。
前髪の水気を全て吹き飛ばしきると、クラピカは文庫本を繙いた。夕焼け色の栞を抜き取ると左の人差し指と薬指の隙間に挟み、視線を文字に沿わせる。
露草のように潤いを孕んだ金髪に自身の指を差し込み、手櫛で梳いてあげる。絡みつく金の絹糸の触り心地を、図らずも指の腹や狭間で堪能してしまい、なんだかこちらから一方通行に厭らしい真似をしているようで、いけない。頂けない。

――だめだな、触れてると……。そんなんじゃあなかったのに。

甘やかしたくて、癒したくて。穏やかでいてほしくて。和やかさで包みたいのに。仕事の合間を縫って、羽を生やして訪ねてきてくれたのだから。
クラピカの髪にも唇にも触れることができる特権を封じようとは言わない、穢らわしい望みを滲ませずに行使したい。なるべく、だけれど。
乾きつつある髪を一房、さらり、と手中から逃がす。秋空に咲いた月のような淡い輝きを湛えた、稲穂色。健やかな光沢が天使の輪を描き出している。
私の指から零れ落ち、ドライヤーに吹かれるがままでいる毛先はどうやら人の手で整えられているようで、香る生活感に頬が綻ぶ。
嗚呼、なんだか。こうしてときめきに濡れた指の櫛で梳くというの。デジャヴュ。

「そういえば私が髪切ってあげたこともあったね」

ドライヤーの轟きに盗まれず、私の思い出話はクラピカの鼓膜に届いたらしい。
一頁捲ったクラピカが眼差しと華奢な鼻先と顎を全部持ち上げる。そのまま瞳を目尻側へと転がして私に目をくれた。

「あいつのところにいた時だったな」
「あいつとか言わない。仮にも師匠でしょ」
「仮だろう」

木の上でも平気で安らいでいたころなんて、前髪と睫毛が絡まりそうなほど伸びても、師(一応)と共に修行に明け暮れていたのに。
そればかりかこの人ときたら切り傷には目もくれない人だった。髪が伸びたね、傷も増えてる、と案じる私を疎ましそうに横目で射抜き。

――この程度であれば支障はない。

常套句で憎たらしく跳ね除けるばかりで、ようやっとこちらの指摘を聞き入れてくれたかと思えば、渋々といった様子で、申し訳程度の絆創膏を宛行い、裂けた皮膚を密閉する。それがいまや治癒すら一人でお茶の子さいさい、なのだもの。
クラピカは所属ファミリーで疾風の出世を重ねていると小耳に挟んだが、身なりに気を配るようになったこともそこに起因するのだろうか。群青や紅の民族衣装を翻す機も減り、今夜のように静かな雨のような訪問をしてくれる折も、正装のままであることが増えつつある。
医大生の彼のように会う都度ネクタイの柄が変わるといった遊び心はまるでない。単なる仕事着過ぎないのだ、というこの人の無執着がひしひしと伝わってくるかのようだ。襟元を寂しくさせないためだけの結び目を義務的に拵えるばかりで――本当に、勤勉なこと。

クラピカの衣服は蒼から黒へ。傷つけられる場所は皮膚から心へ。春から夏へ――思春期から、その先へ。移ろっていく。
ともすればすでに春は終わっているのやもしれない。私達はもう青年、なのやも。
不確実性を纏って、不確実性を宿して、不確実性に囲まれて、自らもまた不確実な身として歩んでいく。辿っていく。確実性の皆無である道を。そしてたった今述べたような未来を、眼差す。
クラピカの生きる道に至ってなど帰還、否、生還すら危ういほどの恐ろしいものなのに。
カチリ、と私はドライヤーの電源を落とした。
するとクラピカは読書を中断し、小説を膝にひっくり返した。表紙を表に、頁を裏に。深紅の栞はまだその人の指の中だ。私を待っていてくれたのだとしたら、さながら忠犬だ。

――でもクラピカ、読書はやめてない。

民族衣装や思春期のようには、その嗜好は手放されていない。まだ、というだけやもしれないが。
コンセントコードを巻く傍ら、私はそれだけでも満足足り得そうだと希望を予感する。
栞を挟むということは明日を信じている証拠に他ならない。クラピカにはまた明日の朝に目覚めるという意志があるということで、クラピカの帰還をたしかに望めるということ。挟まれた深紅の栞は、春風に攫われるのを待つ名残り雪のごとく粛々と、読み物の再開される瞬間を待っている。健気な其れを無下にはできまい。

「ありがとう、なまえ。すっかり甘えてしまった」
「いーえ。リラックスしてほしいのは私だもん」
「ところで君のシャンプー、なかなか使い心地のいい品だな。気に入った。同じものを買おう」
「本当? ならコンディショナーも買うといいよ」
「使う習慣がないのだが……」
「習慣付けちゃえばいいじゃない」

クラピカがまだ明日を生きることを捨てていない、と確かめられた反面で、蝋燭の延命に過ぎず、いつか糧を失い火が朽ちてしまう事実は決して揺るがないのだと、不動なのだと、知らしめられる。
いまいちど噛み締めるけれど、しかしクラピカは、今宵は此処にいてくれるのだ。見つめ合っても咎められない。寄り添い合うのも許される。抱擁するなど容易だ。
そう、容易い。この人が私の日常に溶け込んでいることが舞い上がってしまうくらいに嬉しくて、勢いのままにか細い背中を抱き締めた。ソファの背凭れは邪魔で仕方がないけれど、華奢に思えても私程度は包み込んでしまえる背丈のクラピカである、首に腕を回して、この人を自分の胸にすっぽりと抱き込んでしまえるというのは珍しくて、スペシャリテのように甘やかだ。

「今日はどんな本読んでるの?」
「恋愛小説だな」
「え〜珍しいね」
「そうか? 私はあまり食わず嫌いはしない方だが」
「というか前のもう読み終わったの? これももうすぐ終わっちゃいそうだし……。速読?」
「単なる慣れだ。しかし君がそうして邪魔をしているうちは永遠の猶予を与えられても尚終わりそうにない」

憎たらしくて、綺麗事を紡がなくても、クラピカの唇はアネモネの花弁のように綺麗な弓なりだ。
「次は、」私は少々言い淀みながらも懸命に呂律を回し、編む。

「次は何読むの?」

ちゃあんと、また、栞は挟む先は、羽を休める先は、不変のものは、この世にあなたを繋いでいてくれるものは、ありますか。まだもう少し先の未来くらいまでは、ありつづけますか。
私のこんがらがった内情を総て溶かしてしまえるくらいの、それはそれはとびっきり素晴らしい微笑を刻んだその人は、しかと視線を結び合わせてくれた。

「そうだな――次は冒険譚がいい」


2019/06/15

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