短編

エリート解剖学


9月6日。廃墟には昼下がりの輝きが舞い踊っていた。
未だ意識が浮遊しているらしいクラピカにもう少し休んでとその病体をとどめようとしたセンリツに、彼は重たげな瞼でひとこと答えて。彼女とレオリオから少女の脚で一歩程引いた場所で見守っていた私を、弱々しく射る。クラピカの水晶体が結んだ私の像は紛れもない真実のもので、虚像なんかではなかったけれど、焦点が定まらずにいるのかどことなく自信無さげだ。

「え……っと、クラピカ、何か欲しいものがあったら言ってね。お水とか」
「嗚呼……。貰えるか?」

蒼白のクラピカに対して注ぐ言葉なんて、胸の中の本棚をひっくり返しても見つからなくて、当たり障りなく熱に焦げたその鼓膜を穿ってみる。
粋と記すべきか気遣いと記すべきか、微笑みを残して、彼等彼女等は潮のようにそそくさ退室してしまっていた。
閉じた一室に静寂はあっという間にあふれて、満ちる。私の指の間から、ボトルキャップを緩めた拍子にきしみが零れて波紋を呼んだけれど、それも刹那。開封後、ゆるやかに酸素を裂きながらにボトルを手渡した。
上肢だけを床から剥離させて水を喉へと招くクラピカ。様々なものを持て余し気味にその姿に魅入られていると、深く眼差されていることに気が付いたらしい、怪訝そうに私に眼を返した。

「先ほどからなんなのだ。私の顔に何かついているか?」
「いやなんとなく」

ボトルは再び私の手に戻される。くるくるとそこそこ念入りに蓋を回した後、床の罅の数が少ない場所にそれを立たせようとした。ビルさながらの、直立。そうさせようとほんの戯れに指を添えて、みたりして……。

「なまえ、」

そのさなか、この目はしかとクラピカを捉える。しかし。とうとつに意識を移ろわせた拍子に私は手の甲をペットボトルにちいさくぶつけてしまい、その重心を奪った。倒れるボトルの内部で波が寄り合いはじける。
あ、と視線の槍の先端をそちらの方へと向け直したのも束の間、瞳も睫毛も思考回路も躰もなにもかもことごとくをクラピカに捕らえられた。私を奪ったのは潤いが逃げて砂漠みたいに乾いた指だったけれど、力加減を誤ったのか存外力強く私を引き留めていた。
反して、抱き締める所作は優美で繊細だ。陶器人形を抱きしめる折のようにそうっと、ともすればぎこちなく、いっそ不器用なくらいの慎重さで、震えを孕みながらにそろそろと、クラピカの薄い胸に招かれる。嗚呼、ちからない――蝶の翅同等の儚さで容易に絶たれてしまうであろう、とそんな風に思わせる。
硬直していた自分の背筋と腰がメルトダウンし、素直に抱擁を受け入れた頃にはボトルの中のみなもは凪いでいた。
肌の狭間で体温が溶けて、クラピカを蝕む熱を生まれた時から自分の温度であったかのように幻想しそうになる。身をよじったり深く呼吸する都度産声を奏でる衣擦れの音もどちらのものであるかわからない。
クラピカの鼓動は私の鼓動と幾らもずれながら、一向に重なり合う気配を見せないままこの鼓膜に刻まれていく。バイオリズムの不協和は私達は全く違う生命体であることを知らしめる。同じ生きとし生ける者。異なる生きとし生ける者。
どれくらいの沈黙が私たちの頭上から降り注いでいたのだろう。

「ずっと、故郷と仲間たちの夢を見ていた」

そう彼が。至近距離から耳殻に語りかけられても、真意が見えるわけじゃなかった。ずっと、とは。
眠りに落ちていた間中、ずっと? それともずっとずっと途方もなくずっと昔から?

「何も珍しいことではないんだ。だが……しかし、この街に来てからは事情が違ったからだろうな。景色と、……同胞が、…………いやな色に染まっていた」

きっと赤い色だ。スカーレットのような美しさを宿さない。嘆かわしくおどろおどろしい、刺されるほど生命的な色彩。
――クラピカ。
クラピカに語りかけるんじゃあ、なく。自身の唇の形状は僅かだって揺らめかせずに。
繊細に選ばれていく言葉が、その内情を利口に切り取ったものだとはすぐにわかった。けれど全体像は知らぬままで、いかに暴虐的であったのか空想に頼るほかなかった。

「……冷たいな、なまえ」
「……うん」
「こんなに頬と手を冷やして大丈夫か?」

なんて、冗談めかして放たれるその問いは滑稽で、声音は熱い吐息に包まれていた。私の鬢に差し込まれた鎖の絡む指は熱く緩慢に頬を包んで、冷やかな金属が肌に鈍くぶつかった。
それは私が人魚さながらの低体温になってしまったことで生まれた温度差じゃあなくて、クラピカがあまりにも熱いからなのだけれど。とは伝えず。花束を抱くかのようにそっとクラピカの腰を抱擁して、私もまた同様にその頬に触れる。
ふっ――とクラピカの手が私の肩に落下した。首が折れ、額が私に押し付けられ、背筋が崩れる。あれ、と眼をしばたかせる愚かしい私をひとり残し、すとん、と眠りに落ちてしまったようだった。

***

「冷えるよ、クラピカ。無理しないでね」
「無理などしていないさ」
「やっと熱下がったんだから。本当に風邪引くかもよ」
「そうだな。しかし今夜は眠れそうにない。私が伏せていたのは半日などではなかったのだろう?」
「うん……」
「やはりな」
「ごめん、本当は明日立つのだって急だと思ってる。もう少し休息を入れるべきだったよ。ゴンの師事を受けてくれればよかったのに、って、ごめんね、正直思ってる。やっぱり私クラピカのことが好きだから大切な人に囲まれて穏やかな場所にいてほしいの」

呪わしい熱に踊らされるクラピカは見ていられなかった。酷い強張りを湛えて、力んで、震える瞼にこちらの拍動が狂わされてしまいそうで。未だ隈が深く、血の巡りが芳しくない様子に不安要素が霧散してくれたわけではないのだけれど。
曖昧なものを夜風に託して、哀しい泉の青の装束を靡かせて。硝子が崩れた窓のそばに佇むその人ときたら私の心配を他人事みたいに捉えている。むっとして、口を突いて出た我儘は慌ててかき集めたモラルで濁して、それから視線を上げて見る――と。
「は、」と眼を点にしているクラピカ。言葉見当たらなそうに沈黙を三つほど並べ、沈黙、刮目、次いでまばたき、頬に血潮を集わせて、最後に嘆息。百面相にまでは至らず。

「き、っみは……! よくもそう恥ずかしげもなく言えるものだな。いったいどんな口と言語中枢のつくりをしているんだ……」
「あはは……。ごめんなさい」

しかしながら、とクラピカが編む。

「そういったことに考えが及ばなかったわけではないんだ。人並みの幸せ、というのだろう。穏やかで温かい家と日々は夢に見もした。しかし私はもう……道徳を説ける身ではなくなった。
本来ならばなまえや彼らとももう関わるべきではないことは知っている。わかってはいたんだ。それでも手放せなかった」

冷静さを欠いた時にはセンリツが繋ぎ止めてくれる。レオリオが諦め悪くコールを鳴らして孤独感さえうやむやにしてくれる。私は、拒まれない限り寄り添い続ける。求めてくれる限り応じ続けるだろう。
優しいこの人を手放す気も突き放す気も毛頭持たないのは我々の方だ。離れたくないのも離したくないのも私だ。なのに。

「そんな謝るみたいに言わないで欲しいよ。私はクラピカのことが好きで、望んでこうして一緒にいて、抱き締めるんだよ」
「私は、それこそ身に余るほどの幸せ者だな」
「……っ」
「仲間に恵まれ、そしてなまえが傍らにいる。君の云う通り、いや、君が案ずるまでもなく、私の旅は大切な人々と共にあった。こんなに心強い事はないだろう」

空を閉ざす漆黒の天鵞絨に灯る星明かり。夜風に散りばめていく願いはあまりある。わかっている。
祈る手はそのままにして、今夜は眠る。明日の夜も明後日の夜もけっして祈りを絶やさずに瞑目することだろう。


2019/04/07

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