短編

無希望と裸足のわたし


クラピカの首を縛るネクタイの、ほどかれない結び目だとか、ぴしり、と肌を封じる深い蒼の民族服だとか、そういうのに一々悲しむ脳はとても不出来で、嘆きたい。
喉や鎖骨を慈しんでくれるクラピカの指は骨みたいに細くて、ヘンゼルが騙そうと差し出したものだと幻想しそうなくらい。生命力が非常に淡くて、卑しさも排他され尽くしていて、優しくはあるけれど、こちらの全部は暴かないで、そちらのぜんぶもまた晒さない。
肌を見せて、触れられて、奥の熱も幾度も確かめられた。でも手や唇以外の箇所は重ねた試しは無くって、本当のお互いというものは知らないまんま。きっと許されていないから。
天井を仰ぐ眼球が焦がされてもいないのに酷く痛んだ気がして、私は瞼をきつく結んだ。拳や爪先もまた同様に丸めて縮こませて、嗚呼、このまま総身が紙屑みたいにくしゃりと潰されて、原型から遠い姿でも構わないから小さくなって小さくなって仕舞いには消えてしまえないだろうかと脳裏で愚考を育む。

「辛いようなら、すぐに教えてくれ。君に痛い思いを強いてしまうのは私としても本意ではない」
「……うん。大丈夫」

鼻先に降りるクラピカの声音を受け止めて、私はかろうじて頷くことができたけれど。おまじないみたいに優しい言葉なのに針か菌みたいに喉を突き刺すものだから、どうにも嚥下がうまくいかなくて。
衣擦れの音は今日も一人分。クラピカの透いた白の指先が私のブラウスを開いて、隔てるものを一つずつ丁寧に取り除いていく。
身をくねらせればシーツが鳴いて、虚空にブラウスの脱力の音が転がる。でも乱されて晒されていくのは、平素に違わず私ばかりのこと。やっぱり、クラピカを包んで隔てているものは整ったまんま、だ。
自分だけ暴かれては与えられる、そんな同じような夜にはまたもや痩身を焼かれて、そしてきっと降り注ぐ慈しみ深さには卑しさを炙り出されてしまうのだろう。
騒めく肌を恥じた。融点に変わっていく己の核を隠したかった。
痛いところがどこにあるというのだろう――陶器を慈しむかのように私を撫ぜてくれる手を前にして。

***

タオル置き忘れていたみたい、ここに置いておくね。と、バスルームのグラニュー糖みたいにざらついた曇り硝子越しに、クラピカに告げる心算でいたのに。巡り合ったのは予想外を纏った事態だった。

「――!」
「えっ。わぁ」

クラピカの幽かに跳ねたような吐息と、私の間の抜けた声が転がる。そんな脱衣室にやがて苦々しい沈黙が霜のように降りて、背筋を凍えさせた。
咄嗟に自分の視線は抱きかかえていたバスタオルへと伏せたけれど、視線の槍の先に刹那的に触れた肌の色は、肢体の像は、あの刹那の間に脳に縫い付けられてしまったみたいで、もう記憶が剥ぎ取れない。
てっきりもうバスルームの戸を開けているものだとばかり。まさかこの人の半裸を眼にしてしまうだなんて。そんなつもりはこれっぽっちも。なのに。嗚呼、どうしよう。
混乱と羞恥が錯綜する脳裏で、ぴよぴよ、と雛鳥が乱舞する。

「ご、ごめん。そういうつもりじゃあなくって、バスタオル新しいの無かったな、って。もう入ってるって思ってて、だからで、ごめんね、出る! はい、これ!」

流麗さを失した、謝罪の念だけを詰め込んだサラダみたいに滅茶苦茶な謝罪と、それから件のタオルとを同時にクラピカの腕へと押し付けて、私は脱兎になった。ぱたり、と脱衣室の扉を閉めて、衣類の代用品になるものをうまいこと隔てて、「ごめん」と少々の落ち着きを蘇らせた声音で紡ぐ。

「いや……大丈夫だ。そう謝らないでくれ。なまえが詫びることはないだろう。現に親切心からであるのだから」

背中をくっつけた扉の先の――自分の心臓の裏側の、脱衣室でクラピカが説く。
声音を罅割るように生じる衣擦れの音が耳朶に触れると、卑しい想像力が蠢いてしまう。白百合の茎みたいに細くて、平たくて、中性的な淡い曲線を描く、クラピカの上肢。それより深いところを、脳裏に身勝手な筆遣いで描き出してしまいそうで、私は瞑目と共に自己を戒める。

「我々が肌の露出を控える文化を有していたことも確かではあるが、親しい間柄の人間には無論許す。接触もまた同じだ。なまえならば……構わないとは思っているよ」

クラピカの柔らかな語りに、しぱり、とまばたきが零れ落ちていた。
拒まれていない。知っていた。でも手招かれてはいない。そう思っていた。

「――一緒に、入るか? 目汚しになるかもしれないが」

薄く、細い微笑を孕む、いざなうような声音に、私は羽が生えたみたいになる。恥ずかしがりの性はまだ自分の中で見え隠れしていたけれど、心音は羽化していた。
私はこっくりをする。そうして頷いてから、嗚呼、扉越しじゃあわからない、と気が付いて、うん、と遅れ馳せながらの返答を零した。
蜂蜜を前にしては誰だって素直になるものだろう。足は素直で、でも恥じらいが軽やかには運ばせなくって、重たいものを引き摺った踝と一緒に脱衣室へ踏み込んだ。そこは私には、まさしく聖域だった。

***

いくつもの美しい人形から、それぞれの最も美しい部位を持ち寄り、組み換え、作り上げたみたいな。クラピカの麗しい総身を私の邪な視線で嬲るのも憚られて、ふい、と早々に眼を背けてしまった。道徳に背いてしまうことは、きっとこれでないはずだ。ぶくぶく、と潜水しながら思案する。
夜霧の結界に囚われたみたいに霞む眼界と、浴槽に浸した下肢に纏わりつく浮遊感。そして勇者のように高潔で、精霊のように神秘的で、仙人のように理知的で、けれど防備がことごとく取り払われてしまった、クラピカの存在。
私のいつものバスルームなんぞじゃあ、ない。輝かしくて、揺らめいていて、異界の天空さながらで、嗚呼、ここはどこなのだったかな。
けれど躰を半分だけ沈ませたおゆのおふねはいつもとなんら変わりないみたいだから、きっと、そうなのだ。先ほど仰いだ金髪のこの綺麗な人が、景色を作り変えているだけなのだ。綺麗なクラピカがシャワーを浴びている間は、清らかなのはシャワーヘッドだけで、まだ私のこの浴槽までは驚異的なそれは押し寄せては来ていない。
きゅう、と。クラピカ捻られたらしい蛇口が断末魔を響かせる。ざらざら、という水流の騒めきは忽ち止まって、落ちる水はクラピカの肢体を滑って滴る、悪戯な数滴だけになった。

「ごめんね、クラピカ」
「どうかしたのか?」
「やっぱり肌見せるの、気持ち良くないでしょう」
「先ほど私が言った通りだよ。好んで晒しこそしないが、性を排除しているわけではないんだ」
「……今日、一緒に、って言ってくれたのはどうして?」
「君が少しかわいらしく思えたから、だろうな」
「えっ、あ、ありがとう……」
「いや」

そろり、と浴槽に降りたクラピカの爪先が水面に差し込まれて、素足は底を踏みしめる。狭いバスタブを分かち合うべく、お互いに肩を縮こませたり、端に身を寄せたりする様はどこか愉快だ。
雫が散らばるクラピカの柔らかな髪が雨上がりの稲穂のように、湯気の霞を欺いて眼球を突き刺すから、眩しいから、私はほとほと困ってしまった。焦がれる人の美貌に頭を悩ませていれば、その人が同じバスタブのなかで口火を切る。

「そうは言うが、」
「うん……」
「私が君に触れられることは特権だと少なからず思っている。気を害してしまったのなら申し訳なく思う。当然だな、自分が開示できること以上を君に強いていたも同然なのだから」
「そんなこと、」

そんなこと、ない。と紡ぐべきだったのだろうけれど、睫毛を伏せたクラピカをなぞって、私もまた視線を人工的な水底に呼び込まれてしまって、どうにもならなかった。

「私は――……手段を択ばなかった」

浸かる水面に重力の核たる特異点が生まれるのではと思うほど。或いは、ずん、と鼓膜に穴が生まれるのではと思うほど。重く、重く、響く。
私もクラピカが背負う哀しみの全貌を知るわけじゃあないけれど、共鳴だなんて到底できっこないけれど、心臓を握られた心地で、理解の域に肉薄していた。
「選べなくて、当然だよ」かろうじて、私は伝えることが出来た。

「優しいな、君は……。しかし……すまない、なまえに触れると、自分の手の冷たさを嫌というほどに思い知らされる。何も持たない私に、君が何かを求めてくれるのなら応えたいと思った。だが全てを曝け出せる程に私は清らかではないんだ」

自身の掌を見つめながら、クラピカは言う。クラピカの指を濡らすのは無色透明に煌めく水滴で、青色も緑色も、ましてや赤色にも濡れてはいやしなかったけれど。私には見えない鮮烈な色彩がそこにはあって、あの指の隙間を伝って、浴槽へ吸い寄せられるように滴り落ちているのだろうか。クラピカだけが幻想してしまう、悍ましい液体が。
私はクラピカに許されていない――それともクラピカがクラピカを許していないのだろうか。わからない。
でもクラピカの領域を土足で踏み荒らしてはならないのは紛れもない事実だろうし、きっとこんなような詮索すらも、望まれてはいやしないないんだろう。
神聖なのかはたまた邪悪なのか、定かではないけれど、とにもかくにもこのひとのその域で、私は呼吸してはいけない。憤怒を知っちゃ駄目なのだ。
私は睫毛に乗っかっていた露を一粒、ふるい落とす。おんなじように、文脈もまたふるい落として、煌めきの稲穂色のクラピカに指を伸ばした。
するり、すっぽり。と、クラピカの寂しいその手を包み込む。小さな小さな抱擁を贈る。砂糖菓子みたいにささやかだけれど、伝わるといい。二人の神経の糸が一瞬だけ結ばれると言い、絡まったっていい。そう願いながら、念のような何かを注いでみる。
「……あったかい、よ」物哀しくも凪いでいる、そんな不思議な人のオーラを、繋げた指先から教わりながら、私は言う。

「それはなまえが、だろう」
「ううん――」

クラピカだよ。飴玉みたいに口腔で溶かしたその言葉が、胸中で不発弾になる。


2019/02/01

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