短編

ビロードのディナー


ちら、ちら、と横目で伺う鍋の沸騰の気配に神経を尖らせながら、千はアボカドをまな板に転がす。とそこへ、するり、と千の肩を過ぎるように腕が通り抜け、同じだけ角ばりサイズも均された塩の結晶を降らせた。

「嗚呼、マネ子ちゃん、ごめんね。ありがとう」

鍋の内側を伝って泡が大きく肥大し、繰り返しはじけるようになった頃。合図でもあったように、ひょい、とキッチンに現れるや否や風のようにパスタを担った彼女は。いえ、と至極何でもないことのように微笑み、ぐらぐらと賑わしく沸騰する湯へ向けて扇状にパスタを広げた。

「座っていてくれていいんだよ。君もお客さんなんだし」
「いえ、これくらいはさせてください。ご馳走になるんですし」
「働き者だね」

時折菜箸でかき混ぜてご機嫌を取る事は、律儀な働き蟻に甘える事とし、千は気兼ね無くアボカドを握るのだった。中央に埋まる種に沿い、縦に包丁の切っ先を差し込み捻ればあっけなく割れてくれる。拵えた切れ目から手で真っ二つに割るのだが、思わず力んだ指が微妙にアボカドをぐずつかせ、其の楕円形に磨きをかける形で原型よりもやや縦長になってしまう。
刃を駆使し遊離させた種は、ぽい、と簡易の掃き溜めへと。残した実は三等分に切り分け、ぴらりと皮を剥がす。よく熟したアボカドであれば捲るように離れるのだ。鰐の鱗のようなざらめく皮もまた、アクアグレーの爪の手から放られ、種と同じ道を辿る。
さて、と食器棚からボウルと匙を取り、アボカドをそちらへと移した。匙で押しつぶし、ペースト状にしてゆく。仕上げにボウルに檸檬を絞り、控えめに降らせた調味料で味を調え、彼女の味蕾に寄り添ってみる。
――今宵はアボカドの和風パスタである。

するりとボウルをかき混ぜ、皿を彩り、どうか少しでも彼女の舌に優しくあれるよう祈りながら、指を動かした。ありったけ溢れかえっている感情の切れ端を、シュガーコートにくるみ、美味な品々を捌け口に見立てて投げ込むのだが、どういうわけかまごころは幾ら込めても尽きはしない。枯渇に近づくどころか余計に溢れ出、抱える千が先に限界に至りそうである。

「そっちの湯で汁、少し貰える?」
「あっ、はい」

ボウルを掻き廻していたものと同じスプーンだが、千はそれにはあまり構わない。パスタのたゆたう水面に匙を沈めようと腕を伸ばすと、彼女は退きますねと壁際に身を寄せてくれた。大匙で二杯ほどあれば足りるものだから数杯だろうと、アボカドソースの仕上げは至って感覚的に、だ。
特別な嗜好を持たない彼女のためにささやかながらベーコンを散らすと、食卓へ運ぶ。彼女が律儀にもキッチンの灯りを落とす気配を背中で感じつつ。
いただきます、と。千は涼しい声音でするりと手を重ね、彼女の方は弾んだウィスパーヴォイスで唱え、控えめに軽やかに合わせた手からパチンという音を鳴らした。

彼女のパスタはアルデンテだ。か細く生かした芯を、ぽきり、と歯で砕いて。舌に触れるアボカドペーストはざらめいているのだが、つるんと喉を抜ける不可思議さ、中毒性。

「もしも僕が君へ宛てたラブソングを書いたとしたら、どうする?」

とびっきり甘く、小鳥のようなチャイムのアクセントを織り交ぜた、そんなような世界を描こうと、唐突に筆を執ったとしたら。アンサーは言葉を紡ぐ直前の眉の動きが先んじて千に伝える。

「……びっくりするんじゃあないでしょうか」
「だろうね」

千は語の徒だ。言葉の限界高度はそれほど高くはないことを理解している。軽やかに戦慄を彩る言葉の連なりを慈しみながらも、同時にはなから言葉というものが全てを伝える手段としては幾らも不十分であるとも思う。全てを伝えるに足るとは、とても思えない。
それが虚しく、己が愚かしく。

「なんとなく、ね」

曖昧な言葉選びの語り出しに、はい、と彼女は待ち望む様に頷き肯ずる。
それでも尚不完全な音と語というものを手放せない程度には、否諦め悪く無様に追い縋るほどには、千は骨の髄までそれらに魅惑されていた。時に古い理解者の手を離し、時に子犬のように無垢な一介の少年を引きずり込み、無垢な手を取り、これまでに幾度も棄てかけた通路を繋ぎ直してここまできた。

「僕の胸がからっぽになるほど、ありったけ、全部を、伝えきれたらいいのに、って」

いっそのこと嘔吐でもして枯れてしまいたいと。
言語化し、胸中から追いやろうとも何をしようとも湧き出てやまない感情が、千の脳で乱舞する。胸から溢れれば腹は麻痺し満腹中枢は狂わされた。少々控えた夕餉の、最後のパスタをくるりと巻き取り、喉へと放り込むと千は向かい側の恋人を射抜く。

「触っていい?」

――なんて、ね。
今は何もしないと、そう、淡く。

頬へ伸ばしかけた指先の孕む温度でもどれほどを物語れるのだろうか。ならば指の本数を増やしてみよう。次いで面積を広げ、頬を掌で包み込み、それでもメッセンジャーとして不十分なようなら、役立たずの言葉以外に吐けない互いのくちびるを潰し合うようにぴたりと合わせてしまって。
喋り手の声音も表情の蠢きも取り払った、純粋な“言語”というものはその実、十分なコミュニケーション取ろうとする場合ほんの7パーセント程度の役割しか果たしていない。広く語られる心理だが、実際、言語学者が唱えるところによっても性を交える事が理解に繋ぐ最大の手段なのだと云う。誰彼構わず深く見せ合う訳にもいかず、野性から逃れるために語が発達した、という説も生まれる程度には。

――伝えるには一番なんじゃないかとも思ったけれど。

真夜中が訪れたなら、酸素が割り込める隙間も潰し、凹凸を埋め合う。注ぎ込むように愛し、見つめて。それでも撒き散らされるあまいかおりとリフレインに、空になる事を叶えられた試しなどありはしなかったが。有限を否定する、頃合いなのかもしれない。


2018/10/04
BGM:「just life! all right!」(YUKI)

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