短編

メトロポリタン・ア・スリープ


※マネージャーちゃん(ヒロイン)がナチュラルに一人暮らしをしているような、そうではないような……。
※生理描写がございます。



海底深くに眠らせた痛覚が浮上するや否や、じくじくという鈍痛と倦怠感が下肢に纏わり付いているのを知覚した。痛みの存在を一度神経の糸に引っ掛けてしまうと意識せざるを得なくなり、目覚めていく痛覚を突き刺すそれは存在感を濃ゆめていく。
生理中は嫌だな、駄目だな、お仕事中だっていうのに。冗談めかして吹き飛ばしてしまいたいのに、乾いた笑みさえ零れない。
ぐい、ぐい、と胎内のどこかの器官を引き裂かんばかりの不躾さで引っ張られるみたいに痛む。脚の狭間に絡まるぬるつきはただでさえ不愉快さで、あまつさえ薬も切れてしまったのだから幸運には見放されたと考えるべきで。堰き止められていたはずの痛みは瓦解し、私にはどうしようもない。
せっかく靴を脱ぎ去ってフローリングに足を乗せられたというのに。せっかく壮五さんに差し向けられる、射抜くような目の数々から逃れられたというのに。耐えられなくなり、壁に手を添え腰を歪めると。

「大丈夫、なまえさん? 今日ずっと辛そうだったけれど」

女性は大変だ、と仄かに笑むくちびるで私の痛みを掬して。
玄関からリビングのソファーにかけての短い道のりに寄り添って頂いた。

「温かいものを飲むといいかもしれないね。僕が何か淹れようか」
「いいんですか? ……ではホットミルクをお願いしたいです」
「うん。キッチン借りていい?」
「あの、」
「うん?」
「お鍋で作ったのがいいです……」
「じゃあ、特別」

私がいそいそとホットミルクを所望すると、微笑んで承諾してくださる壮五さん。

「寒いでしょう、これを着て――待っていてね」

ふわり、肩にお貸し頂いたのはヴァイオレットのショールで。不出来になる呼吸が苦しくて、胸元での合わせの部分をぎゅうと握り、目を瞑る。背筋を撫ぜる手は逆立つようだった私の神経を柔らかに宥めた。
私は肩を抱かれて導かれるままソファーに座し、一息をつく。薬を喉に放り込んでなんとか鎮めた後、寝室に爪先を向ける。寝巻きに袖を通して身軽になり、再びソファーへのそりと腰を下すのだった。
デリケートな肌が機嫌を損ねるのが怖いので、本当ならシャワーくらい浴びたかったけれど倦怠感の前では気力は全滅。今日くらいいいや、と甘えてしまう。お手洗いでベッドを汚さないための準備は終えているから咎めるところもない。

「すぐにできるよ」

交わる視線の先で花が崩れるように淡い笑み。それだけでもう、あたたかいのに。
借り物のグラフチェック柄の羽織物はまだ持ち主の温度と香りを仄かに孕んでいた。香るライラックは香水だろうか。棘がなくて淡い残滓は子守唄のように心地よい。
私の肩の輪郭線を象るショールは、壮五さんが纏ったときよりも心なしか控えめな膨らみ方をするので、線の細い彼とでさえ骨格が異なることを知る。
襟の正しさも、所有物も、佇まいも、振る舞いも、全てが壮五さんの上品な生まれ育ちを香らせるものだからなんだか自分が恥ずかしい。浮腫んで膨らんだ顔は酷いし、帰宅後すぐに袖を通したパジャマはもう数日もお洗濯をせずにいたものだ。けれどみすぼらしく過ごす他ない。倦怠感を携えて歩むだけで、整備されたコンクリートも峠道に思えたし、十数段の階段も永遠に続く山登りと同じ感覚に変わる。細やかな家事に対して怠惰は止まらない。
鍋の中ではミルクの泡のこどもたちが端の方に寄り合ってふつふつとしているのだろう。溢れる程沸騰する一歩手前で火を止めて、コンロから降ろす。こぽり、と注ぐ音が2カップ分奏でられて、そして。

「できたよ。マグカップどっちがいい?」

壮五さんの手にはそれぞれうさぎ柄のマグとマーガレット柄のマグがあり、ひょろひょろと湯気を立てている。頭上の灯りを反射して煌めくのは銀色のスプーンの王冠飾りだ。私は前者をお願いした。

「どうぞ」
「ありがとうございます。あったかい……」

私にうさぎのマグカップを握らせると、壮五さんはご自分の分を片手にソファの空白のもう半分に腰を下された。ふぅ、という息吹きが片側の鼓膜を静かに打つ。それに誘われるようにして私もまた嘆息をした。
うさぎさんの頬をそうっと包み込むようにして、両掌と冷えた指先をマグカップの熱で労わる。

「なまえさん、お砂糖は?」

では少し、と差し出したマグに、シュガースティックを半分だけさらさらと流しいれて貰う。スティックの中に余った半分の砂糖粒は壮五さんのマグに注がれた。

「泡立てる?」

お願いします、とこっくりすればカプチーノミキサーの先端が私のミルクの水面に沈む。製菓用のハンドミキサーや生クリーム用のスタンドミキサーよりも控えめな回転と、それから機械音は、今こそ凪いだ室内で鼓膜を震わせるものの、平素ならすぐに生活音に殺されてしまいそうだ。
仕事でいいことがあった日の夜みたいに特別なホットドリンクには、贅沢さと生活感が同居している。喫茶店で頂くものほどの滑らかさはこの泡は持たないけれど、この荒さが嬉しいのだ。
真っ白くてふわふわのミルクと、かわいいマグと、それからお互いの顔を見合わせて、微笑んで。芯まで潤し、あたたまる。泡の真下で水面を覆っている蛋白質の膜は、添えて頂いた匙で混ぜて引き裂いて。鼻先まで沈めてミルクの御鬚、なんてことをやる歳でもないけれど。嗚呼、なんだか今夜はよく眠れそうで。

「ありがとうございます、壮五さん」
「ふふ、どうしたしまして」


壮五さんのお膝をお借りしてリズミカルな秒針に耳を傾けたり、一層近まった彼の淡い香りにうっとりとしたりしていた。先ほどまでは肩にしなだれかかる形だったのだけれど、今は恐れ多くも枕である。90度程傾いた眼界は、目の前に存在するテーブルとほぼ平行線を描く。其処に置かれた二人分のマグカップはまだ少し温かいのだろうか、なんてゆうるりと脳を働かせてみたりする。
そろ、そろ、そろり。腰を撫ぜる手は船を漕ぐようなリズムで緩やかに往復していた。新しく穏やかなリズムを肌に与えて色々な辛さを塗り替え、心臓をなだめてくれるようだ。

「そろそろお部屋に行った方がいいんじゃない? 肩を痛めてしまうよ。僕もお鍋洗えないし」
「はい……。でももう少し」

睡魔が瞼にちょっかいをかけ、閉ざそうとしてくるけれど、手放すには惜しく不安な安堵感。

「そう――じゃあもう少しここにいてあげる」

するり、と背筋から腰にかけてをもう人撫でして。
むくんでしまって激しく不細工な、恥ずかしい顔で見上げた、壮五さんは綺麗なお顔で微笑を散らす。私はやっぱり恥ずかしくなってしまい毛布代わりのショールに顔を埋めるのだけれど、それも彼のものだったことを思い出して、顔を熱くした。


2018/08/19

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