短編

世紀末晩ごはん


百さんのキッチンのぴかぴかな眩しさは家主にすら滅多に相手をされない証だったのだけれど。近頃――私が花柄のエプロンをこのお家に置かせて頂くようになってから、少しずつ生活感に汚れていくようになった。
魔窟と名高い冷蔵庫を始め家電は一式揃えられているけれど、憐れみたいほど触れられていないご様子を、部屋のあらゆるところから垣間見てしまっては、私がやりますと宣言する他なく。せめて数日に一度胃袋に休息を与えるくらいは、と。百さんの御宅を訪ねる度にエプロンを持参して、拙いながら手料理を振舞うようになり暫し経過し、果たして百さんから「もうエプロン置いてっちゃっていいよ」というご許可があったのだかなかったのだか。滑らかな壁に増えたフックにエプロンが住み着いていた。
私よりも百さんと同じ時間を吸い込んでいるエプロンを、今夜もまたひょいと取ろうとして。

「いいよいいよ、なまえちゃんも疲れてるでしょ? 今日はカップ麺でぐだぁーっと週末の夜、過ごしちゃおう?」

お気遣いと、おまけのアイドルウィンクをぱちりと弾けさせて。目覚めるように破壊力抜群のウィンクを真正面から浴びてしまい、くらり、と酔い相になるのを堪え、私は少々汚れの目立つ薬缶を火にかける。……これも今度洗浄しなければ駄目かもしれない。
するり、と百さんの抱擁。二人で衣摺れを起こし、体温が重なり、息が近まり、抱き竦められているから腕や肩を働かせにくくなる。

「やっぱ色的に危なそうだな……。まぁ、もやし入れとけばなんとかなるでしょ。あと野菜ジュース! ほら、オレ栄養は一応考えてるんだ」
「思いの外偉いです」
「思いの外かー……」

「なまえちゃん、酷いや」――不意に頬にキスを一撃見舞われる。

「でもしっかりしてるとこ好きー」
「ふふ、ありがとうございます」

この人はこんな風にして息吹くようにスキンシップを図るものだから、常となった今や驚かずに会話を重ねるなんてお手の物。
頬には不意にキスが降るし、また喜びを分かち合う術は抱き合う事との御認識らしい。不慣れな頃は肩も声音も呼吸も心臓も飛び跳ねさせてばかりだったけれど、あたたかくてくすぐったいのは私も好きだ。
包丁を落としかけたり、火を止める機を誤ったりをし兼ねず危険故に料理中はご遠慮戴くが、食生活を駄目にする今夜は咎めない。
子猫同士の戯れみたいに日常的な触れ合いに溶ける。

「でもいつもこんなお食事だなんて……よく飽きませんね」
「まぁ、いざとなったらローテで凌げるから」
「ローテ?」
「そう。赤っぽい狐、緑な気がする狸、カップヌードル“ズ”、コンビニのカレーラーメン味、とんこつ味……って具合に」

えーっとね、と一本ずつ指を折り曲げてゆきながら、百さんは危なげな事情を判然とした輪郭で晒す。やはり私はこの人から手を離してはならない。百さんのお身体の生命線は私が握っているのだ、託されているのだ。
幽かな沸騰を帯びつつある薬缶内の水面が騒めく以外は静やかで。雑音の多くがキッチンから去っていた――蛇口を捻る音、水の流れる音、皿のぶつかり合う音、包丁のリズム、油の跳ねる音。それら全て。

「オレてっきり米って洗剤で洗うものだと思ってたんだよね。で、そのまんまやらかしちゃってさ……どうなったと思う?」

間。

「炊飯器の中、泡立ってんの!」

生活音さえ眠る夜の3分間には、百さんの愉快なお話が詰め込まれて、閑散さを塗り替える。名もつかないくだらないはなしだというのにおかしくかわいらしく豊かに咲き乱れるものだから、私は口元に手を添えるのも忘れて何度も噴き出してしまった。おまけに自分の頭蓋骨にまで響く大きな笑い声まで。でも私に共鳴して、お腹を抱きかかえてご自身も笑う百さんが、後から羞恥に頭を抱えることにはしてくれなさそうだ。
不健康なカップ麺にはもやしを始め玉蜀黍やら菠薐草がたっぷりとぶち込まれて、スープの醤油色が青々と彩られる。至って当たり前に割り箸が並ぶのだから、彼の箸は使用数に比例してさぞよく物持ちするのだろう。洗い物を極力控えたがる気持ちには共感しつつも、どうにも抵抗感が生まれてしまう。家族と離れて暮らす経験が皆無に等しいから、かしら。

「こんな時間だけど、摂取カロリー倍になるっていうけど、いいや! ももりん飲んじゃおう。もう気にしない。悪い事しまくっちゃう」

ぷしゅり、景気良く酸素の通う音が弾けて、炭酸の強度が鼓膜に溶ける。

「なまえちゃんも遠慮せず飲んでいいからね〜、買ってあるんだ」
「でも悪いですし、私は……」
「たまにはいいって! ね?」

――わるいこと、しよ?

こてん、と百さんが首を傾げるとメッシュの走る短髪は重力に逆らわないまま流れて、輪郭を隠し影のかたちを変え、一瞬で造形物のように作り替わる。はたとしていると視線が結ばれる先で百さんは私に向けて微笑をして。グラスが耐え兼ねるように色香が決壊しそうな、そんなときに。

「……なーんちゃって。どう? 格好良く決まってた?」
「は、はい。とっても! びっくりしちゃいました」
「オレも実はイケメンなんだよ」
「元々そうです!」
「そう言うなまえちゃんもかわいいってー!」

私はおもちゃのモンスターのようにけたけたと笑う。
食後にはフルーティに香るくちびるのままで、瑞々しくキスをされて、して。微笑みあって、腕に招かれて、またキスをして。
百さんに背後から抱かれて座り、TVを点ければ。

「これ秘密なんだけどさー……」

出演タレントの素の顔をとおもしろおかしく明かされる。
なんだかずっとこのままでいれば夜が明けていそうにすら思えて。永遠を夢見るに等しい、半ば信じるような無意識ですらあったのに。
長針が幾度の周回を遂げただろう。短針は駆け足で、秒針は行ったり来たりを繰り返して。
いつしかコメディアンの鈍った突っ込みが冷たげに響くようになり、鼓膜から遠のき始める。睡魔か退屈か定かでは無いものが存在感の尻尾を露わしていく。
床に放置された寂しげなリモートコントローラーを探り出して、変えてもいいですかと問おうとした時、振り向きざまに唇を盗まれた。私が触れかけていた次のチャンネルのボタンは無視して、百さんは真っ赤な電源を先んじて押し込んでしまう。
戯れのキスなら今夜もこの瞬間までに幾度だって重ねた。時折軽く吸われる、遊びの繰り返しの其れは何の意義も持ちはしない。それは間違いなのか。

「なまえちゃん――」

はい、という応答のために用意しておいた声音は裏返って悲鳴になった。衛の緩んだくちびるから侵すいきものがあったのだ。絡めば、猫の其れみたいなざらつきを自分の神経で知り、脳が弾け飛びそうになる。
あれれ、と拙く疑問符を描く。おかしい、さっきまで子供がぬいぐるみを愛でるように抱き締めて口付けるだけだったのに。どこで、どこから一変したというの。
注がれる愛に危ういほど甘ったるく染められていくのは時間の問題だった。
現実からそう距離の無い夢で戯れることを終えて。そして、獣の性を呼び起こして、そして。

「やっぱまだ緊張する?」

あ、とか、え、とか。そればかり。呂律を回せないでいる自分を恥じて、どういうわけか視線は外界の様子を伺いたがる。閉じたカーテンの外側には私たちを晒しあげるフラッシュが痛めつけるように瞬いているのだろうか。
「こっち見てよ」降ってくる不機嫌な呼びかけは、流星が直撃したように痛く、鋭い。かと思えば顎を捕らえられ、視界は百さんの双眸に切り替わる。

「それともただの添い寝だけして帰るつもりだった?」

好きに頷いて仕舞えば、後は勝手に天然と純情が逃してくれるのに、私はそうしなかったから。

***

雄に蹂躙された口腔の乱れが恥ずかしく、ブラウスの襟の崩れが壊れかかった境界線そのもので心許無く。
プレゼントの包み紙を剥ぐように呆気なく私は素肌を晒してしまった。リビングの明るさがあまりにも鬼畜で涙腺が震えて仕方がない。
する、と腰を撫でる手が骨にくっついた少しの無駄な脂質を探る。戯れる指使いと、幼げな愛撫のリフレイン。

「なまえちゃんもわるいこだね。こんなところでその気になっちゃうなんて」

ひどい。意地悪ったらない。
結局私は百さんのお膝の上で貫かれ、喘いでしまった。
喉を仰け反らせると電光が眼を穿つので星が散り、酩酊してしまいそうで。嗚呼どうしようこんなに何もかも晒されてしまうなんて。


2018/08/16

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