短編

ハートビート・エッセンス


色欲さん。

ぱちん、という小気味良い音が響いて。確かにその直前までは私を形作る一部だったはずのものが身体から切り離された。
爪の先だけを切り取るように、肌色を後ろに透かしたところまで入り込まないように、先の方の白い部分だけを爪切りの刃と刃に挟ませて、ぱち、と再び爪を切る。勢いづいて彼方へ飛んで行ってしまったものをカーペットの上から摘まみ上げ、広げたティッシュペーパーの上へ。
ぱちん、ぷちん。おかしい。これらは今の今まで私だったというのに。今はもう、皮膚片か、角質程度の価値でしか、ティッシュペーパー上に存在していない。臍の緒を切られてしまえば完全に母体とは別の生命である赤子、では、ないけれど。濡れ羽の如きだ、金糸のようだと褒め称えられても抜け落ちればごみ屑籠へと放り捨てられる髪の毛と同じ。

「爪を切っているのか」
「うん。爪を、切っているの」

不自然なリピート。だから、不自然な会話の、ほら、できあがり。
私の手元を染める影は細い。やや反り気味ながらぴんと伸ばした背筋に、華奢な肩からだらりとぶら下がる骨のような腕。ことん、と動く頭は胴体とそことを繋ぐ細長い首に乗っかっていて。首を傾げるような仕草を見せたゴウセルに合わせて、ラズベリーの色の髪は形を変えるのだろう。見上げずに、私はラズベリーの甘酸っぱい色を思い浮かべる。
時折どちらともなく生まれ落ちるごく短い会話を挟みながら、やがて私は最後の小指に刃を宛てた。挟み込み、指で力一杯摘まんで、ぱちんっ、と切り落とす。
ラベンダーの香りのオイルやマニキュアを用意してはいたけれど、何だか乙女らしく手入れやケアをする気も沸いては来なくって。――だって、彼のその桜貝を並べたかのような爪を見せられてしまったら、ね。

「マニキュアを、塗って差し上げましょうか?」

かくかくと、少し角ばった形状の指とそこにちょこりんと乗る血色鮮やかな桜貝の爪を見つめていたら、思ったのだ。そういう身を飾る物は、私なんぞが並ぶ事すらはばかられる美貌の、この少年が使う方が相応しいと。
だけど、チュニックの袖に隠されている手首には神器の弓矢が埋め込まれていることを思い出す。

「嗚呼、ごめんなさい。そんなことをしたら戦いの邪魔になってしまうかしら」
「そうだな。蛍光塗料程では無いにしても、相手が手の動きが読みやすくなる恐れがある。しかし足なら大して問題はないだろう」

ゴウセルがその手を足元に伸ばすと、しなやかな背と腰が柔らかく曲がり、姿勢を変えて指を靴にまで連れて行った。か細い指がショートブーツにかかると、するする、と足から引き抜かれて。眼前に晒された御御足の眩しさたるや。上等のシルクさながらの、造り物めいた輝かしさを有する脚にすっかり魅入られる。

「どうしたんだ。やってくれるんじゃなかったのか?」
「ごめんなさい、ぼうっとしてしまって。どこかに座ってくれる?」
「嗚呼」

ぺた、と床に臀部をくっつけると、ゴウセルは私の方へと無造作に足を寄越す。

「人にペディキュアを塗ってあげるなんて初めてよ」
「それはマニキュア、ではないのか?」
「これは、マニキュア。でもね、手の爪に塗る物はマニキュア、足に塗る物はペディキュアと云うの」
「……覚えておこう」
「そんなことが役に立つ機会なんて、早々ないわ。きっと」

銀色の蓋をくるくると廻して瓶を開ける。ふわ、と立ち上って鼻先を掠めて行くシンナー臭。マニキュアの瓶の蓋と一体になっている筆を引き抜き、たっぷりと液を含んだ筆でゴウセルの爪に色彩を齎していく。液体の冷たさと行き来する筆の毛先に感覚が刺激されるのか、くすぐったそうに彼の足は逃げようとする。それを捉えて、もう一塗りを重ねて。ぱっ、と一度解放すると今度は指を一つ隣に移して再びマニキュアを施していく。


「昔、学び舎にペディキュアをつけてきた子がいて。でも、見つかってしまって。怒られていたの」

大人への憧憬が根底にあっての“背伸び”を手伝ってくれるハイヒールは其処には履いて来てはいけないから。平凡なローファーの中の、靴下の下で女の子たちは淑女を気取る。本音としては爪に色や飾りをつけるのなら、足よりも手がいいのだ。でもそんな誤りを犯してしまえば、教師と、強いグループの少女等の手によって二度に渡り処刑をされる。正直皆が恐ろしがっているのは後者の方だった。自分を大人と信じて疑わない少年少女たちの中で唯一の本物の大人は、案外小さなものだから。
本当を告白してしまうと、私もマニキュアや、ハイヒールや、ルージュを使って自分の笑顔を華やかにしてみたかった少女の一人で。だから、件のペディキュアの子の気持ちも痛い程理解できた。勿体なくって剥がせなかったのだろうと理由だって察せてしまえた。叱られるその子の足先を、綺麗だな、いいな、ってこっそりと盗み見ていた。

「遠目から見るとね、その子の爪はとても鮮やかな紅の色をしていて、美しかったわ。だから私、先生が来る前に少しだけ見せてってお願いをした。他の子も、同じだったのね。私以外の子たちとみんなで爪を見せて貰ったわ」

うっとり、まさにそんな瞳で夢見るように記憶を馳せたあの日常。

「確かに、綺麗な色だったわ。でも近くで見ると何だか違うもののようだった。下の爪が罅割れているからかしら。爪自体があまり綺麗な形では無かったからかしら。……巻き爪で指に食い込んでしまっているし、雑に切ったのでしょうね、先の方ががたがただったわ。塗り方も結構雑で、ペディキュアが爪からはみ出してしまっていたりもした」

遠くから、何となく、首を伸ばして、そうして眺めていたから、十個のルビーが並んでいるように見えたというだけで。そうだというだけなのだと、知った。

「――あの時はじめて知った事よ、女の子って眺めていると愛らしくって、硝子細工みたいに繊細そうで、砂糖菓子のような甘い香りでもしそうなものなのに、寄ってみるとそうでもないの。造り物じゃない、生物なの」

それが何だかがっかりで、残念で、そして日々の退屈さに拍車を掛けたのだ。

「ゴウセルはこんなに美しいのに」

ふと気づけば。本音は結びかけの口の隙間から零れて落っこちてしまっている。
塗り終えた方の足の指を、ぐぅ、ぱぁ。丸めたり、開いたりをして興味深そうにゴウセルは色を確かめつつ。「そんなことはないぞ」と彼は謙遜を口にするけれど。嘘よ、あなた絶対に自分のかわいらしさを自覚しているでしょう。

「お前の爪も整えてやろう」
「じゃあ、お願い出来る?」
「その――ペディキュアも塗ってやる」

きっと彼の新雪がなければ切りっ放しで放置されていただろう、尖りのある私の爪。そこにまず彼は鑢を当てる。横向きに擦り付けて尖りを取り、斜めに擦って整えて。繊細な指先で触れて、見て、確かめてから、次の指へ。

「随分と傷ついているな」
「恥ずかしいわ」
「丁寧に扱わねば」
「……気をつけるわ」

先をなだらかに、滑らかに。

「……ペディキュア……」

マニキュアの小瓶を手に取ると、ぷっくりと肉厚な唇からゴウセルは漏らす。

「え?」
「覚えておくだけ無駄ではなかった。こうしてお前に塗ってやるために」
「そうね」

筆を持つと私の足を掌で包み、そっとベールを重ねていく。鼻腔を痛ませるシンナーの香りも魔法のように仄甘く変わって。女の子同士の秘密の遊びみたいに繰り広げられる塗り合いっこは、まるで夢心地ち。
色づいていく。淡い紅の色に――いいえ、今は、私の見つめる先の旋毛とおんなじラズベリー色だと、言わせて貰おうかしら。


2017/10/10

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