短編

苺タルトの効能とその結果についての見解


色欲さん。

彼は、それはそれは美しい人でした。
神様が手ずからお造りになった人形が命を吹き込まれ、動いている。そう言われでもしないと心から頷くことなどできない美麗さは、さながら天使か妖精かと言わんばかりの――いいえ、彼ならばきっと女神様にだって見劣りしないでしょう。
私達と同じように呼吸をし、心臓を働かせ、血液を巡らせている。琥珀色の双眸を通して世界を認識し、か細い二本の御御足で立って歩んで生きている。人間として、否、生物として当たり前であるというのに彼に限ってそれは不思議なことに思えました。どうしてこんなにも美しい人の身体が自分と全く変わらない原理で動かされているのか、と疑念すら抱けてしまいます。少年の美貌は正に魔性のそれでした。
だから大陸一の魔術師によって彼の真の姿を前にした時、驚愕以上に私は安心していたのかもしれません。神の手による作品ではなかったことが少々残念ではありましたが、彼が私とは同じではなかった衝撃事実は突っかからずにすとんと胸に落ちてくれました。救われたのです、私は。少年が愛し合いたい対象から一方的に愛でてあげる対象にすり替わったお陰で。
私の中に存在していた彼に対しての限りなく恋情に近い感情は――訂正します、あったのは確かに恋情そのものでしたが、自覚が追いつくまでに膨れ上がるより前の卵か赤ちゃんのようなものでした――今ある形を崩さずに済んだのです。膨れ過ぎた風船さながらの破裂という哀れな末路を、辿ることなく済んだのです。

「なまえ、」

指で絡め取ったラズベリーピンクの髪を私は愛おしく思います。良い形の耳を隠す髪はそっと耳裏にかけてやり、ひと撫でした頬をそっと掌で包みました。髪や、耳や、顔、でもそればかりではありません。容貌にそぐわない男らしい名前や情を多くは含まないいささか落ち着き過ぎた声音、どれを取っても彼は素晴らしく綺麗なのです。
お互い向き合う形で座って大差無い目線の位置で、触れ合いながらに見つめ合う様はまるで恋人同士のよう。間違っても男の子と取る距離感ではありませんが、不思議と下心は生まれ落ちてきません。なぜでしょう。邪な考えがこぼれてくるような思考の隙間なんて塗りつぶされてしまっていたか、もしくは。そこに存在するだけで世界を狂わせる彼の魔性の愛らしさに脳すら機能できなくっていたか。だってそうでしょう、そうとしか考えられないでしょう、睡眠欲や食欲と並ぶ三大欲求の一つとされるそれをも押さえつけてしまうものなんて、わかりません。そうだとしておくのが一番ですもの。

「……なまえ、何故先程から執拗なまでに俺に触れている? それではまるで愛撫のようだ」

ごめんなさい、あなたがあまりにもかわいらしかったものだから。謝罪を添えた月並みの言葉を私は述べます。
それにしても、表情一つ変えず、彼は今とんでもないことをのたまいました。綺麗な口から紡がれるのは同じように綺麗な言葉であると、信じて疑わなかった私は大きく丸く目を見張ります。
ですが、刹那、私はさらに刮目をすることになるのです。何せ彼が私の唇に自身の唇を寄せて来たのですから。

「人間のやることはわからない。これだって口内の菌を交換し合い、耐性を作るための行為だろう。なぜキスなどと特別視するんだ――?」

キスはただの接触であり、至って生物的な行為。そんな、文明から離れた認識のままに、一瞬だけのそれを終えると、なんでもないことのように彼は言います。なんでもないのは彼にとってだけだと、とてもなんでもなくはない精神状態の私は認識の差異を噛み締めました。

「ゴウセル、あなた、今自分がしたことをわかってる?」
「キス、だろう?」
「えぇ、そうよ。キスよ。だからこうして今私は聞いているのよ。どういうつもりなの」
「……つまり、お前もこの行為を特別に思っているということか」
「当たり前でしょう。私はあなたじゃない。モラルに理由は問わないし、動物との差なんて一々意識したりしないわ」
「初体験を大切にするという文化もあるとは聞くが……。そうか、すまない」
「勝手に納得しないでくれるかしら。セクシャルハラスメントと受け止めてもいいところよ。あと、初体験か否かは関係ないから」

この世の全てに対して、なんで、どうして、と疑問を持ち、与えられた回答すら疑い、疑問符の放出をやめない様はさながら言葉を覚えたての幼い子のようです。ですが子供だからこそ常識を持たせなければいけない、そう思います。

「なぜそんなにも必死になっている?」
「……あなたのせいよ」
「そうか。悪いことをした。何を謝ればいい」

ゴウセルを慈しむ気持ちの全部が真実なわけではありませんでした。その気持ちに加えて、たくさんの気持ちが集まった集合体が私の中の心だったのです。しかし当然心には醜い部分も存在します。だから私は彼を慈しむ気持ちだけを都合よく拡大し、真実としました。真実は、真実であって欲しかったもの、つまるところ私の願望だったのです。
それを彼はいともたやすく崩そうとして来ました。たったひとつのキスだけで。だめなのです、いけないのです、真実を拠り所とした壁を崩されてしまったら。

「謝る必要はないわ、ゴウセル。ただ聞かせて欲しい。今のは、実験よね? なんの感情もない、ただの好奇心からの行為なのよね? お願い、お願いよ。ゴウセル。そうだと言って頂戴」
「どうしたんだ、なまえ。呼吸が荒いでいる。それに心拍数も……」
「お願い、言って。そうしてくれれば大丈夫になるわ。東洋の言霊、前に話してあげたでしょう? それとおんなじ。――さっきのに恋情なんて、なかったのよね?」
「あぁ、そうだ。お前の言う通り、これはただの実験に過ぎない。恋情はなかった」

それで世界は元どおり。鼓膜を震わす彼の言葉で、構造が変わってしまいそうだった世界の仕組みも見える景色もあるべき姿となりました。ですが、何かが確かに微かにだけ違いました――否、狂わされてしまっていました。
その狂いは、一つの歯車が動きを止めたですとか、軋む音を鳴らしたですとか、そんな些細なものでした。けれど投げ入れられた石によって凪いでいた水面には波紋が生まれ、広がり、そして高波を連れて来ます。
恋情なんてありませんでした。今までは。少なくとも、私の心の視界の中には。
でも、今はどうでしょう。
目覚めてしまいました。
発芽してしまいました。
握りつぶしたはずの種が覚醒したのです。
私の中に浅く「浸入」を果たしたゴウセル。彼に感じ取られてしまえば、時期に慈しむだけでは物足りないことを、暴かれてしまうのでしょう。

確かに恋は此処にあったのです。


2017/08/10
4月のゴウセルショック(本誌派)で書いたものの手直しです。
無欲ちゃんがあかちゃんなら、疑問のまま動く色欲さんは子どもにあたるのかな、なんて考えております。

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