短編

ヘンリエッタの変遷


あぁ、もう、とか。存外満更でもない癖して、困ったような調子で口を聞いてみるのは俺である。怪我人のなまえの手を緩く握り、訪れた保健室だったが、その扉を鳴らすより先に、『不在』の看板がぶらさがっていることに気がついた。本日、佐賀美先生ご不在。俺は自分の臙脂色の鬢に指を差し込んで、しまった、とばかりに皮膚を引っ掻く。

「先生今日いないのか……」

ぽつり、とひとり語散た声が、静やかさが敷かれた廊下に波紋を呼ぶ。
大丈夫、戻る、となまえは諦めの意非表示に俺のパーカーの袖を指で引いたが、その彼女は足を引き摺っているのだ。捻挫の痛みが纏わりついているらしい足の、ぎこちなく痛ましい歩み。幽かな実りさえなく、ただ往復だけを強いるのは気が引けた。

「戻るったって……その足じゃあ辛いだろ。前にも不在中に絆創膏借りたことはあるし、テーピングくらいは俺にもできるしさ。借りちまおうぜ――内緒だぞ」

一瞬の躊躇いを揺らめかせたあとで、こっくりをして、なまえは鶩の雛になって。忍び込む。

「お邪魔しまーす」

虚空を引っ掻くのは俺の鍍金の陽気さで、一応の断りの中で楽天家を演じる虚しさは苦笑としてじわりと口角に滲んでいった。
えーっと、場所は確か……。などと呟きながら、宝物探しよりも容易くひょいひょいっと氷嚢と包帯を頂戴する。

「なまえ、そこ座ってくれ。それでソックス……を…………」

そろりと座したなまえの前に跪き、彼女の爪先から踝にかけてをすっかり包み込んでいる上靴に指を差し出しかけたその刹那。保健室の透明感のない床の冷やかさに仄かに倦怠しながら、愚かしいくらいゆるやかに廻っていた脳味噌が羞恥心で急激に焦げる。
戦々恐々、椅子に腰かけているなまえを仰げば。俺に足を捕らえられ、恥じらいながらに膝を閉じていた。
片脚、とはいえど。肌、なのだ。これではシンデレラとはまるで対極的だ。

「あ……、あー、えっ……と、なまえさん、脱いで、頂けます……?」

困り果てて考える事は、空気があまりよろしくないということだ。よろしくはないが、それも仕方がない。降りる沈黙を熱するのは褒め難い設定温度の空調のせいなんだろう。虚空に濡れ衣を着せてしまうのだって、そうなのだ、仕方がないのだ。
何せ細胞の核からなにからなにまでが熱い。

ことり、と。少々の高位置から柔らかく落とされた上靴が、軽やかに落下音を歌う。
白桃の果皮を滑らかに剥いていくみたいに、するり、するするり、とソックスは輝かしい肌を滑り降り、皺を多く寄せていって、繊維の肌色とすり替わるようにその面積を譲りながら、露わにしていく。血管をなぞっていくように――血流を追うように、滑らかに。
眼球を突き刺されているようで、俺は視線をわたわたと惑わせる。
ついに抜き去られたらしいソックスがかわいらしく宙ぶらりんになっていた。

幽かな赤みを帯びた、哀れな程痛ましい踝に触れる。俺の痛覚が誤って幻惑されてしまうような腫れで、おまけに手に取ったのは包帯だ。リボンで飾る折のような夢心地なんかでは到底いられなかった。
真緒君、慣れてるね、などと白百合の無垢さでなまえが零すものだから、俺の脳裏でまだ煙を燻らせていた煩悩の残り火は朝霧が去るように失せた。

「――慣れてるって? ま、まぁ、これでもバスケ部だしな〜。これぐらいは、な」

ことばの隅っこに自虐めいた響きを孕ませてしまうのは、背徳感か、性か、果たして。
ぱちぱち、と控えめになる拍手。感激と云うには大袈裟な事だろうに無邪気に手を叩いてくれるなまえに、その弾ける音色に、どこかかわいいシンバルモンキーの仕草に、俺の頬には少々の照れくささの朱色が灯った。
なまえの患部を包帯で包み切った時。嗚呼、惜しい――そんな邪な意識が、ちいさく泡のようにはじけた。弾け飛んで、しゃぼんのように酸素に還った。


2019/03/18

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