短編

綺羅星が腐敗する夜


腕時計の針を見つめ、とっくに過ぎている待ち合わせ時刻を疑いながら携帯端末を引っ張り出してみるが、結果的に腕時計の正確さが証明されるだけだった。
唇同士の隙間から零れ出た吐息。嘆息をして苛立つほどに青い無罪の空を仰ぐのはこれで一体何度目か。流れて途切れて風に煽られ、絶えず形を変え続ける雲が訳もなく憎い。
二桁代はとうの昔に追い越してしまったであろう溜め息にまた新たに数を重ね、白い湯煙上の目に見える形を視線で追う。
待ち人が来ない――デートの待ち合わせ場所に、どんなに待っても真緒が来ない。それが事の発端で、全ての憂鬱の原因だ。
コートにマフラー、靴はブーツ。製品名だけをつらつらと述べて行けばしっかりとした防寒具の集合体の中に私は身を置いているわけだが、今日は頭のてっぺんから爪の先までデート仕様であることを忘れてはいけない。輪郭をだぼっとたるませてしまうパーカーは抜いて、普段ならズボンの下にでもストッキングを履いてしまうのだが女の子らしくを突き詰めた結果王道であるスカートに落ち着いた。生足ではない、だからなんだ。冬風に晒され続けた体は指先から徐々に熱を逃がし始めている。
来たらとっちめてやろう、なんて威勢よく思考を飛ばしていたのは数分も昔の話。よく考えれば待ち合わせ5分前行動を心がけそうなしっかり者の真緒なのだ。度を過ぎた“しっかり”故に他に任せておけばいいものを自分がやらねばと背負い込みすぎるほどだから、道中で誰かを助けているだけかもしれないけれど、何にせよ単なる寝坊は考え付かない。
やはり何か、彼の身にあったのかもしれない。几帳面な彼が来れなくなってしまったという連絡をいれることすら忘れてしまうくらいの、不測の事態が。
一向に既読の文字が付かないトークアプリの画面との睨めっこは私が顔を逸らしたことで終わりを迎えた。
『今から真緒の家、行くね』と一言。鍛え上げたタイピング速度をもってすれば送信までに数秒とかからない。


響く呼び鈴。変わらぬ閑静。もう一度、と伸ばした指先。しかしやはり応答はない。
再びアプリを開いてみるが、先ほどのメッセージもその前のメッセージもやはり未読のままで。これはますますくたばっている可能性が……と頬を引き攣らせた時。私の目に飛び込んできたのは両のメッセージが開封された瞬間だった。
い、生きてる……!! 喜びと感動が同時に、電流の如き勢いを以て全身を駆け抜けた。
期待に胸を高鳴らせながら顔を上げると、衣更宅のドアの向こうから重い足音を引きずる気配が近づいて来た。がちゃ、と開錠。開かれる。

「ほんとに生きてた……!!」
「人を勝手に殺すなよ……」

こんにちはもいらっしゃいもお邪魔しますもすっ飛ばし、突っ込みを入れてくる真緒の、覇気のない芯を失った声色はとてもいつも通りとは思えない。纏めていることの多い前髪は億劫だったのか解かれ、汗でしなしなと肌に貼り付いて。日差しを吸った健康児の肌は熱を孕み、垂れさがるまで熟れ過ぎた真っ赤な林檎。百人に尋ねれば百人が等しい答えを導き出すだろう。病人、と。確かに死にそうだけどさ、と視線を外しつつ付け加えたお人好しの塊はきちんと状況把握をできていると思う。出血大サービス、叱咤は割愛としよう。

「大丈夫? とりあえず中入って、ほら」
「あのさ、自分の部屋入れるみたいに言ってっけど、ここ、俺ん家な」

こほ、と咳き込む弱々しく萎んだ肩を掴んで強引に室内へ押し返し、ついでに自分の身体もねじ込もうと隙間を広げると「ただの風邪だけど伝染ると行けねーし」、要らない気遣いと共に入室を拒まれた。

「すっぽかしたのは悪いと思ってるけど、今は寝せてくれ……」
「別に怒りに来たんじゃないよ。安否確認。誰もいないんでしょ」
「まぁ。ってなんでわかった?」
「玄関に靴がない」
「……彼女と出掛けるって言ったらじゃあ自分達もって予定入れられちまって、」

起きたら誰もいないわ体調悪くて視界悪いわあっちこっちぶつけるわ……とぶちぶち続けられる言葉が、ぴしゃりと固まった私の耳をすり抜けていく。それほどまでに衝撃的だったのだ、真緒の“彼女”発言が。
インターフォンでやっと布団から背中を離すことができたという彼に問ってみる。

「ねぇねぇ、真緒クン、真緒クン。なまえさんに看病して欲しいっ?」
「ん……じゃあ、頼むわ」
「えっ、ごめん、まさかそんなに弱ってたとは……」
「ちげえって。昼飯の問題」
「あー……うん。だよねー」

交際数ヶ月目にしてほとんど見たことがない恐らく5回目となる私へのデレではなかったのですね。
鉛でも投げつけられたように一気に重みを増して垂れ下がる肩。ゆらりと真緒が動いた。

「お昼何食べたい?」
「食っても大丈夫なやつ」
「ちょっ、どんなだけ信用ないのさ!?」

「林檎でも剥いてあげようか? せっかくだから兎さんに」
「無理すんな。俺は食えればいいから……。剥いてる途中で変色するだろうし。皮あっても平気だから」
「だーかーらーっ、義務教育受けてんだって、こっちも! できるよ! 皮むきくらい! 兎さんも! 鍋でご飯炊けるし最近赤飯も修得したんだからね!?」
「ごめんって。俺が悪かったから……。頭響く。……少し寝るからできたら起こしてくれよ」

押せば崩れ落ちてしまいそうな真緒の歩みを口をひき結んではらはらと見守る。高所から落下するが如き勢いでソファーに沈み込んだ。
日常的には使用されていないらしい台所に足を踏み入れる。

「わりぃ……なまえ」
「なにがー?」
「今日、行けなかったの、悪かった」

その恰好、結構似合ってる。食器棚の戸を閉める動作の隙間に、喉から絞り出された細い掠れ声が消え入りながらに耳朶を撫でる。
そういうことは、ちゃんと健康な時に言えよ、馬鹿。
熱に浮かされての愛の囁きなんてこれから死んでしまう人間だけで十分だろう。
「布団いけばいいのに」は照れ隠しのつもりで、ぼそり、零した。


「寝ちゃった?」
「……起きてる」
「そっか」

いつもの機敏さも俊敏さも元気と共にどこかに置き忘れてしまったらしい真緒はのそりと大層動き辛そうに上体を起こす。
時たま見せる照れた赤面とは打って変わり、本調子ではない赤い顔は起きていたと言っていた割には夢と現実の狭間で今も揺れている。ささやかな手料理と林檎を乗せた皿をローテーブルに置くとかたんと音が立った。

「わざわざ真緒がここで待ってたのってさ、理由、寂しかった、とか?」
「おう、……って言ったらどうするんだ」
「抱きつかせて」
「はずれだな。うん、はずれ。残念。いただきます」

一人足を延ばす形でソファーを占領していた真緒は座り直すと私に座すスペースを分けてくれた。言外にここに座れと伝えてくれているのだと、気遣ってくれているのだと解釈させてもらう。

「嘘だろ、なまえが作ったもんなのにおいしい……」
「そこ感動するとこじゃなーい!」

はぐはぐとスローペースに食し始める真緒に「全部食べられそう?」首を傾げて尋ねてみると「多分な」と曖昧に返された。その辺は低下した食欲との相談なのだろう。だけれど出された昼食が真緒の期待を裏切らないクリーチャーであったとしても、恐らく彼は無理やりにでも口に突っ込もうとする。忍耐強さは美徳だがそれによって我が身を滅ぼしてしまったら元も子もないではないか。我慢しすぎるのは長男坊の性なのか。しかし本人の性格に寄る部分も多いであろうと、長女の身である私は落ち着けようとする。
やがて真緒の手により食器は空になる。持ち主あるいは客人に料理を届けるという使命を果たしたそれを元の位置に戻してしまおうと、皿を片手に再び台所を借りるべく立とうとした。した、のだ。私を引き留めるものがあり、立つことはできなかった。

「食器か?」
「うん、使わせてもらったんだし洗っとくよ」
「しなくていい」
「割らないよ?」
「そうじゃねぇって」

そうじゃないなら、なに? とわかっていながら敢えて問う。
手首を掴まれ立ち往生。病人の恋人のこんな行動の裏側に行かないで欲しい以外の意図があるだろうか。

「皿洗いはいいから少し側にいてくれ……」

余計なものまで背負い込んで自らを袋小路に追い込んでしまう、自己犠牲的なお人好し。そんな彼のかわいい甘えを受け止めるのが私の務めであると、そう断じている。
よくできました。そう言って破顔すると、なまえお前わかってて言わせただろ。ようやく気づいたらしく罰悪そうにじとっと真緒はこちらを睨む。へらへら笑って受け流し、「じゃあベッド行こう。その方が楽でしょ」手首を取れていた手と繋ぎ直して魚でも釣り上げるように引っ張り上げた。
少年というよりはもう青年に近しい真緒を運ぶというのは無理難題に等しい無茶ぶりだ。ふにゃふにゃと力なく湯気でも吹き出しそうな背中に手を添えて見守ることしかできないのはどこか歯痒いものがある。風邪も病気も伝染さえしなければ本人の問題でしかないのだから仕方がないけれど。自分達の関係を差し引いてもやはりこんなような状態の真緒が心配だったのだ。

ちく、たく、と。心臓が刻み続けるリズムとはずれを持った、規則正しい時計による機械的な秒読みが身体の芯深くにまで浸透していく。来客がいる間は意地でも寝まいとしている、“ばか”とルビを振れる度合いの重度のお人好しは、うつらうつら、虚空を仰ぐ翡翠の双眸を瞼の裏に隠したりけち臭くも半分程度を中途半端に見せつけてきたり。熱と疲労とで眠くて眠くて仕方がないであろうに、意地だけは一人前なのだから困ったものだ。
睡魔並びに発熱の要因の一つと思われる疲労、彼の場合はそれの溜め込み方が良ろしくない。人を助けようとするのは優しさ故、頼まれてもいないのに巻き込まれに行ってしまうのはお節介。救われた人間から見ればその姿勢は尊敬に値する立派なものではある。だが、背負い込み癖の全てが褒められたものであると私は思えないのだ。
いい子ぶるなと冷たい言葉を浴びせかけてしまえば彼は少しくらい自分への甘さを身につけてくれるだろうか。否、無理だろう。誰かに甘えることよりも誰かを助けて褒められることを喜びとして与えられて育ってしまったような可哀相な男の子には、難しい。
「ねぇ、真緒」寝ているのかいないのか察し難い彼のあどけない姿に呼びかける。頭を沈めた枕に散らばる緋色の短髪は癖が強いようでも綺麗だ。

――誰にも頼らないで全部一人でやろうとするのってさ、周りを信用してないってことでもあるんじゃないのかな。

双眸を覆う厚い水膜が覗き込んだ私の影に色づいてゆらり揺らめく。

……かもな。

薄く開いた唇が象った言葉が声に乗せられなくても、何故だか感じ取れてしまって。
この空間から抜け出す口実を探そうと馳せた視線の先、最後に確認した時よりも大分針の進んだ目覚まし時計が目に留まった。

「そろそろ私、帰ろうかな……」
「ん……、そっか。飯ありがと、助かった」

やってしまった一言に真緒から快く言い渡された言葉。赤いままの彼は相変わらず大丈夫ではなさそうだったけれど、来たばかりの時よりは幾分楽そうに思える。証拠に、笑顔が自然だ。

「……言うのもあれだけど、さっきみたいに引き留めて欲しかったよ」

立ち上がる際に生じた衣擦れ音に――あるいは私の取り落とした本音に、真緒の睫毛が震えた。
はぁ、と彼の口から盛大に吐き出された溜め息が空気を少し知り親しんだ日常の雰囲気へと和らげた。

「うつっても、文句、言うなよ……、なまえ」

重苦しい動作で蠢いた真緒が私の後頭部に手を回してくる。反対の空いた手に頬を包まれ、されるがままに。寄せられる唇を自分の唇で受け止め、おとなしく啄まれた。
キスの瞬間はそれこそ意識を手放しているかのように感触と微かな相手の息遣いだけを感じている。恥じらいが生まれるのはいつだって直前と直後だ。唇が離れると回数を重ねた行為であるだけに触れるだけのものが名残惜しく思えて、そんな風にされてしまった自分が何より恥ずかしい。僅か3秒、しかし風邪故の異様な体温が強く彼自身の存在をこちらに知らしめる。
離れてから遅まきながら自覚した感情が胸の中で暴れ出す。瞬く事を忘れ、瞠目。目の前にある熱く濡れ蕩けた双眸はやはり流麗な曲線を描いている。パーツ一つ取っても彼は格好良い。吸い込まれそうだ。否、既に吸い込まれていた。
二度目は私からだった。再び作られた睫毛同士が触れ合いそうな距離。勢いをつけすぎたお陰で互いの前歯がごつんと鈍い音を立てた。回されたままの真緒の手が後ろ髪を弄ぶ。もうこのまま、子供だとか大人じゃ無いだとか、そんな理由は捨て置いて先の先に突っ走ってしまうのもいいかもしれない、と。螺子の緩んだ脳は素っ頓狂な廻り方を始める。それを打ち止めてくれたのは真緒だった。
止まっていた時間が動く。詰まらせた呼吸が働き出す。めぐり出す。
最後の最後の、彼からの置き土産として。ちゅ、と私の額でリップ音が弾けた。

「……ほら、帰った帰った」

こほん、とわざとらしい咳払いを一つして恥ずかしいことをしてしまったとばかりに目を離す。「真緒のあほうっ」捻り出した悪態は幼稚過ぎた。


2017/01/07

- ナノ -